الاثنين، 16 سبتمبر 2019

イチロー

イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、1973年10月22日[3] - )は平成期のプロ野球選手。2019年3月引退。愛知県西春日井郡豊山町出身[1][2] 。

MLBシーズン最多安打記録保持者(262安打)であり[5][6]、プロ野球における通算安打世界記録保持者(NPB/MLB通算4257安打でギネス世界記録に認定[6])、最多試合出場記録保持者(NPB/MLB通算3604試合出場)
概要
日本プロ野球(以下NPB)ではMVP、首位打者、打点王、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などを獲得し、2000年オフに日本人初の野手としてメジャーリーグベースボール(以下MLB)に移籍[注 1]。MLBでは、MVP、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞などを獲得した。2004年にはMLBのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、コミッショナー特別表彰を受けた。2016年にはMLB通算で3000本安打、500盗塁、さらにNPB/MLB通算でのプロ野球における通算最多安打数(ギネス世界記録)[8] を樹立するなど活躍した。

他表記は「鈴木一朗」「イチロー・スズキ」「Ichiro」「Ichiro Suzuki」など。愛称はイチ[9]。代理人はトニー・アタナシオが当初より長く務めていたが、2014年11月からはジョン・ボッグス[10]。血液型はB型[11]。

経歴
生い立ち
1973年10月22日に誕生。生後間もなく名古屋市守山区から西春日井郡豊山町へ転居。二人兄弟の次男だったが、祖父「銀一」から「一」の文字を取り「一朗」と命名された。イチローと兄に限らず、祖父「銀一」の全ての孫の名には漢字「一」が付けられている。

小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。エースで4番として活躍し、6年生の時には全国大会に出場した。小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をした。しばらくすると、飛距離が伸び場外ホームランを連発するようになったため、町内にある空港バッティングセンターにほぼ毎日通い詰めるようになった。3年生の時には速度100キロの球を打っていたという[12]。バッティングセンターに通いつめるあまり、一般用の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを発注して、来た時に交換していた[13]。父親からは、料金は気にせずボール球には手出ししないよう指示され選球眼を磨いた[14]。

豊山町立豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属。エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという。地元・愛知の多くの高校から誘いが来たが、中村豪が監督を務め野球部員は寮生活を送る愛工大名電に進学する。

高校時代
愛工大名電時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 - 3番) 。2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。高校時代の監督は中村豪。松井秀喜とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。高校3年生の地方大会での打率が7割以上を記録していた程の打者だった。

3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投球フォームが崩れ、野手転向を余儀なくされる。投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた[15]。

父・鈴木宣之は、文武両道で大学に進学しその後にプロ入りすべきと考えていたが、イチローは「大学で4年間野球をするよりも高卒でプロ入りしたほうがレベルの高い練習が出来る」と考えて高校からのプロ入りを目指した[16]。

イチローは、1991年のドラフト会議を前に、地元球団であることに加え、目標としていた藤王康晴・田尾安志が所属しており、幼少期からファンだった中日ドラゴンズを希望していた[17]。イチロー本人だけでなく、父・宣之も、「子供のころからドラゴンズのファンだったし、せめて3位ぐらいまでに(中日が)指名してくれればいい」と思っていた[17]。

しかし、当時イチローを担当していた中日のスカウト池田英俊は、当時投手だったイチローについて「体が出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない」と評価していた[18][19]。結局、中日はイチローについて、ドラフト5位での指名を予定していたが、オリックス・ブルーウェーブの東海地区担当だった三輪田勝利スカウトが、4位での指名を強く主張したため、イチローの中日入団は幻に終わった[20]。

結果的に地元の「金の卵」を取り逃がした中日は、その後、スカウト間でのお家騒動に発展したという。中日元監督・星野仙一は[注 2]、「うち(中日)は、投手としての感触だけでしか(イチローを)見ていなかった。あれは大失敗だった。イチローの教訓は、うちのこれからのスカウティングに生かしたい」と語った[18]。

1991年の夏の終わり、三輪田から「おもしろい選手がいるから見て欲しい」と報告を受けて、当時オリックスの編成部長だった中田昌宏がイチローを視察。福本豊や加藤秀司らを育てた阪急の名打撃コーチでもあった中田だったが、1球たりとも芯を外さない、イチローのフリーバッティングを見て、「あんな選手見たことがない」とその天才的打撃に惚れ込み、田口壮に次ぐ2位指名を編成会議で求めた。しかし、フロント入りしていた前監督・上田利治らは「線が細すぎる。プロでは無理だ」と萩原淳を推して侃々諤々の議論の末、萩原の2位指名が決まった。3位指名はオリックスが囲っていた本東洋で決まっていたため、ドラフト当日、オリックスのイチロー獲得は絶望的だった。しかし、同じくイチローを高く評価していた日本ハムと、地元中日が、いずれも4位までに指名しなかったため、オリックスはイチローを4位で指名することができた[21]。このような経緯もあり、三輪田の親族によれば、イチローは三輪田の死後、墓参りを毎年欠かしたことがないという[22]。

ドラフト会議翌日、三輪田は、イチローの実家にあいさつに訪れた[23]。父・宜之は、入団については、中村監督に一任したが、契約についてのみ、「前年、イチローの先輩(伊藤栄祐)が、ドラフト5位、年俸400万円で近鉄バファローズに入団している。イチローはドラフト4位なので、(年俸面での待遇は)5位との差を少しでもつけてほしい」と要望した[23]。これを受け、オリックス球団は、1年目年俸を430万円に設定した[23]。契約金は4000万円だったが、約半分が税金として徴収されており、残った2000万円分は、宣之が「息子の退職金の先払いと思って」、将来のために貯金をしたという[23]。

オリックス時代
1992年7月11日の対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)で、左翼手・村上信一に代わる守備固めとして1軍初出場を果たした。翌日の対ダイエー戦で初スタメン出場。木村恵二が投げた直球を右翼に打ちプロ初安打を記録した[24]。この年は打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得したが土井正三・小川亨などの1軍首脳陣に自身の打法(振り子打法)を批判される。「足の速さを活かしてゴロを打つように」と打撃方法を変更するよう要求されるが拒否[25]、1軍打撃コーチ・山内一弘と意見が合わず、シーズン終盤にスタメンになる事は増えたが一軍に定着することはなかった(土井との関係については土井正三#監督としてを参照)。同年のジュニアオールスターにて同点である8回に有働克也から代打決勝本塁打を放ってMVPと賞金100万円を獲得し賞金全額を神戸市の養護施設に寄付した。2軍選手ではイチローが初。

1993年4月10日の開幕戦は9番・中堅手としてスタメンに起用され、翌日の試合では1番打者を務める。その後は控えにまわり、6月12日の対近鉄バファローズ戦(長岡市悠久山野球場)で再び1番・中堅手としてスタメン出場を果たす。同試合では野茂英雄からプロ初本塁打を放った[26]。以降も6月23日まではスタメン起用されるが、打率1割台という不振のため2軍行きを命じられる。

2軍生活の中でイチローは、同年の秋に2軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。2軍では、前年から続いて2シーズンにまたがる46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)[24]。この年は打率.371を残したが規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の柳田聖人の打率は.346)。同年のオフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、「ヒロ・スターズ」に所属して優勝し、ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドでは推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた[27]。

1994年の公式戦開幕直前の4月7日、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更[28](オープン戦は「鈴木一朗」登録)。日本人選手としては初めて、名字を除いた名前での選手名登録となった[注 3]。この年から監督に招聘された仰木彬[注 4] はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。打法も同年から新しく1軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打[注 5] の偉業を達成した。

最終的に安打数も210本(当時の日本プロ野球記録、現球団記録[注 6])まで伸ばし、この活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」が連盟表彰のタイトルとされた。打率では、日本プロ野球史上初の4割打者誕生はならなかったものの、最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385(2000年に自ら記録を更新.387)を残して首位打者を獲得。そのほかにも最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。

1995年の開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災において本拠地の神戸市が壊滅的な害を被りイチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災する。この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートした。イチローは震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」的存在として、首位打者・打点王[注 7]・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。「打者五冠王」に輝いた。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)のほか、全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙だった。本塁打はリーグ3位タイの25本で、この年に28本放って本塁打王を獲得した小久保裕紀とは3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩だった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球、自身初のリーグ最多敬遠に加え、当時の日本プロ野球タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残すと、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となるシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。そしてチームは悲願のリーグ優勝を達成した。

1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場。オールスターゲーム第1戦では広島東洋カープの紀藤真琴から初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板[30]。セ・リーグ総監督の野村克也が松井秀喜の代打で送った高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いていたが、3番になってからは調子を上げて固め打ちが目立つようになり、8月にはプロ野球記録となる月間48安打(月間打率は.475)を記録した。

最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、また193安打で3年連続となる最多安打・最高出塁率を記録、去年に引き続き最多敬遠も記録した。猛打賞を26回(達成当時、日本プロ野球記録。現在日本プロ野球歴代3位)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本プロ野球新記録。現在はパ・リーグ記録)。9月23日の対日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現させた。日本シリーズでは、第1戦の延長10回に河野博文から決勝本塁打を放つなどの活躍を見せ、1977年以来19年ぶりの日本一に輝いた。イチローは優秀選手賞を受賞したほか、3年連続となるシーズンMVPを手にした。3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志に次いで史上2人目。

1997年6月に「209打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立。その後の対日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、「216打席連続無三振」を記録した。最終的には185安打として、最高出塁率に関しては3年連続で途切れたが、最多安打・首位打者を4年連続とし、最多敬遠も3年連続と伸ばした。

1998年は打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)他、リーグ最多敬遠も4年連続となった。

一方で、イチローは1995年シーズンから1999年の4月11日までスランプに陥っていたと語り、特に1998年は深刻なスランプを感じていた[31]。実際に同年シーズンは21併殺打を記録し、5月には当時のパ・リーグワーストタイ記録となる4試合連続併殺打を記録している[32]。

1999年シーズン開幕前の2月、星野伸之や戎信行とともに、オリックスと業務提携を結んでいたシアトル・マリナーズの春季キャンプに招待され、2週間参加した。シーズンでは開幕から調子があがらず、数年間のスランプをひきずっていたが、同年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦の第5打席で西崎幸広からセカンドゴロを放つ。後に「この打席がきっかけで、自分の打撃が開眼した」という旨を語っている通り、同打席によってスランプから脱出し、以降は復調した[注 8][33]。4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。

前半戦を打率.370・19本塁打・60打点の成績で折り返すと、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場がパ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした。また、今シーズンは141安打にとどまり、最多安打に関しても5年連続で途切れた。しかし3年ぶりに最高出塁率を記録した他、首位打者に関しては6年連続とした他、引き続き5年連続最多敬遠を記録した。

2000年は開幕戦から4番に指名され、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持。7月には通算10度目となる月間MVP(日本プロ野球記録)を受賞した。97試合目終了時点で打率.398を記録。102試合目終了時まで3割9分台 (.3923) を堅持するなど高打率を残していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルボールを打った際に右脇腹を痛めて途中交代。残りシーズンを棒に振った。

10月12日、記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとして出場した(打席には立たなかった)。前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。最終的に、日本プロ野球歴代2位(及びパ・リーグ記録)となるシーズン打率.387を記録。安打数こそ153安打にとどまり最多安打を逃したが、通算7度目の首位打者(日本プロ野球記録)を獲得。6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録し、2年連続通算5度目となる最高出塁率、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した。

MLB時代
マリナーズ時代
2000年11月10日に、日本人初のポスティングシステムによる独占交渉権をシアトル・マリナーズが1300万ドル余りで獲得。19日に3年契約で合意し、28日に渡米。30日に3年総額1400万ドルで正式契約を結び、日本人野手初のメジャーリーガーとなった[注 1]。背番号は51。

日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。当時のマリナーズ監督ルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかった[34]。また、背番号51についても、当時のマリナーズではランディ・ジョンソン(1989 - 1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」という理由であまり好意的には見られていなかったが、その後の活躍により、ランディ・ジョンソンとの連名での永久欠番になるのではないかといった予想がされるまでになる[35]。東京在住のアメリカ人ジャーナリストであるロバート・ホワイティングは2000年12月号の文藝春秋にて、「イチロー君大リーグは甘くないぞ」と題して、イチローがMLBでは通用しないことを断言し、「イチロー自身も『あーあ、アメリカにこなければ今ごろはまだ日本のスーパースターでいられたのに』と後悔しているかもしれない。来年の今ごろ、僕がこの誌面で平謝りに謝っているかどうか、忘れずにチェックしてほしい。」と執筆した[36]。

(以降日付は全て現地時間) 2001年4月2日のオークランド・アスレチックスとの開幕戦に、1番・右翼手で先発出場。第4打席にセンター前へメジャー初安打を放ち、第5打席にはバント安打を記録して2安打1得点の活躍でチームの勝利に貢献するという好スタートを切った。4月11日は敵地オークランドで三塁を狙ったテレンス・ロングを完璧な送球で刺して大きな話題を呼んでいる(後述)。その後も順調に安打を積み重ね、4月から5月にかけて2か月連続でこの年から制定された月間新人MVPを受賞。オールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出された。オールスターでは先発のランディ・ジョンソンと対戦。内野安打を放ち、盗塁も記録した。7月はキャリアを通じて自己ワースト(当時)となる21打席連続無安打を喫し失速するが、翌月から復調。8月28日には132試合目での200安打に到達。9月8日には1996年にアレックス・ロドリゲスが記録した球団最多安打記録の215安打を更新。再び8月と9月の2か月連続で月間新人MVPを受賞する活躍で、シーズン116勝(メジャータイ記録)でのチームの地区優勝に大きく貢献した。マリナーズのこの活躍は、コミッショナー特別表彰を受けとることになる。

この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグの新人最多安打記録を更新するとともに、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞という数多くのタイトルを獲得した。打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目である。その他にも安打試合数の135試合は歴代1位タイ[注 9]、127得点はリーグ2位、得点圏打率(.445) は両リーグを通じて1位を記録した。
2002年は5月に月間打率.404を残すと、26日に打率と出塁率でリーグトップに躍り出た。6月18日のシンシナティ・レッズ戦では1999年2月にマリナーズのキャンプに参加して以来3年ぶりにケン・グリフィー・ジュニアと再会。「やっぱり彼は僕にとってメジャーリーガーの象徴。メジャーに興味を持ったのも、彼の美しさ、スピードを見て感銘を受けたからなんです」と語った[37]。しかし8月から調子を落とし、9月22日のアナハイム・エンゼルス戦で2年連続の200安打を達成したが、チームも8月から失速。監督のルー・ピネラはゲン担ぎとして試合前のメンバー表交換にイチローを登場させるなどしたが、地区3位に沈んだ。

自身は最終的にリーグ4位の打率.321を残すと、208安打を打つも最多安打のアルフォンソ・ソリアーノにはあと1本及ばなかった。前年の活躍もあったため、投手から警戒されるようになり、リーグ最多の27敬遠を記録した。そのため、四球は前年の30から68に倍増した。11月には日米野球に参加した。

2003年は4月に打率.243という低調なスタートを切ったが、5月から調子を上げ、16日にはメジャー通算500安打を達成。オールスターのファン投票では新人から3年連続で両リーグ最多得票を獲得。この年から新たに設けられた選手間投票でも最高の評価を受けて選出された。ファン投票の連続最多得票は新人からという注釈を外してもケン・グリフィー・ジュニア以来史上2人目の快挙であり、メジャーリーグのスター選手の地位を確固たるものにした。

7月18日には自身メジャー初の満塁本塁打を放った。前年と同じく8月に失速。9月20日に200安打に到達したものの、最終的にはリーグ7位の打率.312、同2位の212安打(1位のバーノン・ウェルズとは3本差)に終わった。チームも前年と同じく同時期に失速し、前年と同じ勝敗数でシーズンを終えた。オフには4年4400万ドルで契約延長した。
2004年はスプリングトレーニングでメジャー移籍後最高となる打率.421を残して開幕を迎える。前年と同じく4月は打率.255と低調なスタートとなったが、5月には調子を上げ、NPB/MLB通算2000安打を達成すると共に自身2度目の月間50安打を記録。6月にやや調子を落とすと、オールスターのファン投票中間発表では松井秀喜が3位、自身は4位だったが、最終発表で逆転し4年連続のオールスター先発出場を果たした。

7月は29日に1試合5安打を記録するなど再び調子を上げて51安打を放ち、ジョー・メドウィック以来68年ぶりとなるシーズン2度の月間50安打を達成。8月3日には首位打者に浮上した。26日にはメジャー史上初となるデビューから4年連続200安打記録を本塁打で自己最速にて達成[注 10]。31日に球団記録であるアレックス・ロドリゲスの月間54安打を更新すると、68年ぶりにロイ・ウェザリー(英語版)の月間56安打のタイ記録に並んだ(タイ・カッブの月間67安打には届かなかった[注 11])。

映像外部リンク
 2004年10月1日
シーズン258安打を達成した打席(YouTubeによる動画)
10月1日に256安打としていたイチローは本拠地セーフコ・フィールドで迎えたテキサス・レンジャーズ戦では、ライアン・ドリースから第一打席に三塁前に高くバウンドするレフト前ヒットで記録に並ぶと、第二打席にセンター前に弾き返し258安打とし、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新した。

この試合のアナウンサーのデイブ・ニーハウスは「the greatest moment of my baseball career」と述べ、最多安打を打った瞬間には「And a ground ball back up the middle! And there it is! He's the new all time hit king in major league history, number two-five-eight! My oh my!」と実況した[39]。258安打を打った後チームが連打で畳み掛け、この日は3安打、チームも勝利した。その後、10月2日に1安打、10月3日の最終試合でも2安打を打った。

最終的にチームは12年ぶりの地区最下位に沈んだが、自身はジョージ・シスラーのシーズン安打記録を5本上回る262安打でシーズン最多安打記録を更新。この記録は10年以上たった現在も破られていない。同時に打率.372を残すと、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いたほか、得点圏打率(.372)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315) でもリーグ1位を記録。出塁率(.414)、盗塁数(36)などではリーグ2位を記録した。262安打の影に隠れがちであるが、月間50安打をシーズンで3度達成したのは史上初、またロード打率(.405)、後半戦打率(.429)を記録。更にロードで記録した145安打もロード記録としてはシーズンメジャー最多安打となった。

シスラーの記録は年間154試合制での記録で、イチローは160試合目での記録到達であったため[40]、現地では少なからず疑問視する見方もあったものの[41][注 12]、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、『USAトゥデイ』紙にもバリー・ボンズが700号本塁打を放った時以来の全面広告でメジャーリーグ機構が祝福の意を表した。ジョージ・シスラーの記録そのものが「破るのが困難な記録」とされていたこともあり、イチローは史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け[注 13]、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。日本においては正力松太郎賞特別賞が授与された。

2005年は4月に打率.356と好調なスタートを切ったが、一方で例年調子の良い5月に調子を落とす。6月14日には1900年以降3番目のスピード記録[注 14] となる696試合目でのメジャー通算1000安打を達成したが、結果的にはメジャー5年目の時点で自己最低となる打率.311で前半戦を終了。オールスターではファン投票4位となり、初めて選手間投票での選出となった。翌年のワールド・ベースボール・クラシック開催を記念して、各国から選出された打者によって争われることとなったオールスター前日の本塁打競争の出場も打診されたが、こちらは辞退した。最終的にはメジャーでの自己最多となるシーズン15本塁打・12三塁打を記録した一方で、自己ワーストの打率.303と206安打(1位のマイケル・ヤングと15本差の2位)に終わり、不本意なシーズンとなった。また、チームも2年連続の地区最下位に沈んだ。5年連続100得点30盗塁は6年連続のジョー・モーガン、タイ記録のリッキー・ヘンダーソンに次いで3人目(19世紀の記録を入れるとビリー・ハミルトンの10年連続が最高)。5度の200安打100得点30盗塁はタイ・カッブ以来89年ぶり、連続記録としては史上初。チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いた。
2006年はこの年初めて開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出される[42]。イチローはこれまで国際大会については「オリンピックはあくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」という考え(アマチュアリズム)で[43]、オリンピックなど国際大会への参加を断り続けていたが、WBCはメジャーリーグ主導によるプロの初の世界大会とあって進んで参加した。1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げ、アメリカ合衆国戦では先頭打者本塁打を記録。マリナーズでは見られなかった感情・闘志むき出しのプレイを見せ、疑惑の判定で敗れたアメリカ合衆国戦の後には、決起集会を開いてチームを鼓舞するなど[44][注 15]、日本の野球選手の顔として、日本代表を牽引。決勝の対キューバ戦では、中押しのきっかけとなる二塁打と、1点差に詰め寄られた後に突き放す適時打を放った。最終的に一次予選から決勝まで全ての試合で安打を記録すると、打率.364(33打数12安打)、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点、4四球を残して外野手部門のベストナインに選ばれた。


守備から戻るイチロー(2006年)
レギュラーシーズンでは、5月にメジャー通算200盗塁を達成。オールスターファン投票では3位でオールスターに選出。会見では6年以上連続選出がアレックス・ロドリゲスとマニー・ラミレスだけであったことについて、「残りのひとりになりたいと思う。それは大いにある目標です」と語った[45]。7月26日には戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274安打を更新。8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400単打を928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーの連続6シーズン通算1313安打を抜いた。9月7日にNPB/MLB通算800単打も達成。9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317安打を超え、一週間後となった16日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー史上3人目となる6年連続200安打を達成した。この試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。

最終的に2年ぶりのリーグ最多安打となる224安打とリーグ6位の打率.322を記録したが、8月には自己ワーストとなる月間打率.233の不振に陥り、「あんなに野球が難しいのか、こんなにしんどいのかと何度も思った」と振り返った[45]。連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンのシーズン記録44連続盗塁成功には及ばなかった。その他、メジャー通算100敬遠を達成。この年から創立されたセイバーメトリクスの専門家により選出されるフィールディング・バイブル・アワードの右翼手部門にも選出された。

2007年5月3日に41連続盗塁成功を達成し、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新[注 16] したが、5月18日のエンゼルス戦、7回裏盗塁死になって連続盗塁成功記録は「45」でストップし、メジャー記録[注 17] の更新はならなかった。7月には5年9000万ドルで契約を延長。7月11日、7年連続で出場したオールスターゲームにおいてクリス・ヤングからオールスター史上初のランニング本塁打を含む3打数3安打2打点の活躍でオールスターMVPを受賞した。7月29日には近代野球では3番目のスピード記録[注 18] となる1060試合目でのメジャー通算1500安打を達成。9月3日のニューヨーク・ヤンキース戦ではロジャー・クレメンスから本塁打を放ち、7年連続200安打(史上3人目)を達成。最終的にマグリオ・オルドニェスとの首位打者争いには敗れたものの、リーグ2位の打率.351(1位のマグリオ・オルドニェスとは1分2厘差)と同1位の238安打を記録。メジャー初となる3度目の230安打以上を達成。リーグ9位の出塁率.396に加え、リーグ2位(125打席以上)の得点圏打率.397、満塁では13打数8安打、打率.615という驚異的な勝負強さを発揮。2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞した。今シーズンは右翼手ではなく中堅手としてプレーしたが、中堅手としてもゴールドグラブ賞も受賞。アンドレ・ドーソン以来となるシーズン途中のコンバートなしでの右翼手と中堅手両方での受賞となった。

2008年はスプリングトレーニングで26打席連続無安打を喫して開幕を迎え、5月終了時点でも打率.284とメジャー8年目で初めて打率3割未満で6月を迎えた。6月7日に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続8シーズン通算1666安打を抜いた。6月11日にメジャー通算300盗塁を達成。16日には日米通算500盗塁を達成。
9月17日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で遊撃手への内野安打を放ち、8年連続200安打を達成。ウィリー・キーラーが1894年から1901年にかけて記録して以来、107年ぶりの記録を達成した。9月26日のオークランド・アスレチックス戦では8年連続100得点を達成。同一シーズンでの200本安打100得点を8回記録したのはルー・ゲーリッグ以来2人目、連続記録としては史上初(19世紀の記録を入れるとウィリー・キーラーも達成している)。シーズンを両リーグトップタイの213安打で終了。メジャータイ記録となる3年連続最多安打(史上7人目)、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について8年連続と伸ばした。
2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。大会開幕前の練習試合から全く安打が出ず、大会開幕後も打率.200前後という絶不調の状態が続いたが、監督の原辰徳は全試合でイチローを1番に起用し続け、最終的にイチローもそれに応える。決勝の韓国戦で、6打数4安打、延長10回に林昌勇から決勝の2点適時打を放つ活躍で連覇に貢献。大会全体では打率.273(44打数12安打)ながらも最後の最後で日本の連覇に大きく貢献。その後のトロフィー授与式や祝勝会では、普段クールなイチローも笑顔を絶やすことはなかった。

WBC終了後、マリナーズに合流。プレシーズンゲームの数試合に出場したが、WBCの影響から極度の疲労により体調を崩すと、4月3日に精密検査を受けた結果、胃に出血性の潰瘍が認められ、自身初の故障者リスト入りとなった[46]。

復帰戦となった4月15日のエンゼルス戦の第5打席で満塁本塁打を放ち、張本勲が持つ日本最多安打記録の3085本にNPB/MLB通算で並び、翌16日のエンゼルス戦の4回に右前打し、3086本として、安打日本記録をNPB/MLB通算で更新した。5月にはメジャータイ記録に残り1と迫る通算7度目の20試合以上連続安打。6月3日には自身の持つ球団記録を塗り替える27試合連続安打を記録し、メジャー9年間で最高となる打率.362で前半戦を終了。オールスターにも9年連続の選出を果たした。

9月6日、対アスレチックス戦の初回に右翼線へ痛烈な二塁打を放ち、メジャー通算2000安打を達成。9シーズン目での到達は史上最速、1402試合目での達成はアル・シモンズの1390試合に次ぐ史上2番目のスピード記録だった[47]。9月13日にはウィリー・キーラーが持っていた8年連続200安打を108年ぶりに更新する9年連続200本安打を達成。17日のシカゴ・ホワイトソックス戦にて延長14回の場面で自身メジャー2度目のサヨナラ打を記録した。さらに翌18日のニューヨーク・ヤンキース戦にて1−2で迎えた9回裏、2アウト2塁の場面でマリアノ・リベラから自身メジャー初となる逆転サヨナラ本塁打を記録した。26日のトロント・ブルージェイズ戦での5回、1死三塁のチャンスで回った第3打席、デビッド・パーシーが投じた2ストライクからの外角球を見逃すと判定はストライク。この判定にバットでボールの通過地点を示すなどして抗議。NPB/MLB通じて自身初の退場処分を受けてしまった。

4月から10月まですべての月で月間打率3割以上を記録。昨年の8月から続いていた2試合連続無安打なし記録を9月下旬まで継続。併殺打の数も出場1試合目に記録した1のみに留めるなど、シーズンを通して抜群の安定感を見せた。故障者リスト入りしたこともあり一時は連続200安打の記録更新も危ぶまれたが、終わってみればシーズン225安打を記録。220安打以上は自身5度目で、ジェシー・バーケットが4回の220安打を記録して以降108年間更新者が現れなかった記録を破った。このシーズンはジョー・マウアーと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.352(1位のジョー・マウアーとは1分3厘差)と、メジャー史上初となる4年連続最多安打を記録。また、メジャー移籍後では自己最高の長打率を残した。自身3度目の最多敬遠も記録。2007年以来3度目となるシルバー・スラッガー賞を受賞した。シーズンを通じての「100得点」「30盗塁」の連続記録は8年で途絶えたが、「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」については9年連続と伸ばした。2006年以来のフィールディング・バイブル・アワードにも選出された。

2010年6月5日のロサンゼルス・エンゼルス戦でメジャー通算1000得点を達成。23日には自身が持つ9年連続200安打の記録を伸ばし10年連続200本安打とした。10度のシーズン200安打はピート・ローズと並ぶ大リーグ史上1位タイ記録。安打数は最終的に214安打とし、自身8回目の210安打を記録。タイ・カッブが持つ通算7回の210安打という記録を86年ぶりに更新した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について10年連続と伸ばした。2年連続3度目のフィールディング・バイブル・アワードも受賞した。

2011年4月2日のオークランド・アスレチックス戦、自身のメジャーデビューからちょうど10年となったこの試合で、エドガー・マルティネスの持つ球団最多安打記録を更新するメジャー通算2248安打を達成。4月ではメジャー移籍後4番目に高い月間打率.328とともに39安打10盗塁を記録するなど快調な滑り出しを見せた。しかしこれまで最も相性の良かった5月は一転して極度の不振が続き、メジャーデビュー以降全ての月で最低となる月間打率.210を記録。6月15日のエンゼルス戦でメジャー通算400盗塁およびNPB/MLB通算600盗塁を記録。シーズンを通しては自身初となる2年連続40盗塁を達成。37歳ながら走塁による貢献値を示すEQBRRはメジャー全体で3位の8.9を記録した。また、9月8日のロイヤルズ戦ではメジャー通算36本目の初回先頭打者本塁打を放ったことでボビー・ボンズを上回る歴代6位となった。

しかし、5月以降は一度も月間打率3割を記録出来ないまま、打率.272、184安打でシーズンを終了。メジャー移籍後10年連続で達成してきた「打率3割」「200安打」「オールスター出場」が途切れた(中でも「打率3割」と「オールスター出場」に関しては、NPB/MLB通算ではレギュラーの座を確保した1994年以降17年連続で達成していた)。守備でも、この年から各ポジション別に選ばれた最終候補3人の中から受賞者が決定となるよう方式が変更されたゴールドグラブ賞選考では、最終候補にも名が挙がることはなく、他の記録と同様に10年連続(NPB/MLB通算では1994年以降17年連続)で途切れてしまった。

こうした極度の不振を各メディアが「年齢による力の衰え」[48]「今季は期待外れに終わった」と評する[49] 不本意なシーズンになる。不振要因として「スピードの衰え」「視力の低下」「不運」などと言われ[50]「一塁に到達するまでの時間が平均3.9秒になった」とする[51](ただし前年の平均も3.92秒)[52] 声や、「右方向へのゴロが多く、内野安打を稼ぎやすい左方向への打球が少なかった」[53]、「好守によって阻まれたヒットが多い」、「ボール球に手を出す確率が高くなった」などというさまざまな声が挙がった。

2012年3月28日、メジャー移籍以降初めて日本での公式開幕戦に出場し、5打数4安打の活躍を見せる。6月19日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦では史上4番目の早さとなる1817試合目でメジャー通算2500本安打を達成[54][55]。この年は、前年オフからマリナーズ監督のエリック・ウェッジが進言してきた起用法で、打順が定位置であった1番から3番へ移っていたものの、成績不振により6月以降は再び1番や2番にも移るなど起用法が転々。調子は一向に戻らず打率.261を喫し、特に本拠地セーフコ・フィールドでは打率.214であった。

ヤンキース時代
2012年7月23日、D.J.ミッチェルとダニー・ファーカーとの2対1のトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍[56]。移籍発表の記者会見の場では、自ら移籍を志願していたことを明かすと「11年半、ファンの方と同じ時間、思いを共有したことを振り返り、自分がマリナーズのユニホームを脱ぐと想像したときに、大変さびしい思いになったし、今回の決断は大変難しいものだった。オールスターブレークの間に自分なりに考えて出した結論は、20代前半の選手が多いこのチームの未来に、来年以降僕がいるべきではないのではないか。また、僕自身環境を変えて刺激を求めたい、という強い思いが芽生えた」と語り[57]、ヤンキースへの移籍に対する心意気として「結果的には一番勝ってないチームから、一番勝っているチームに行くということになるので、テンションの上げ方をどうしようかなと思います」と語った[57]。オリックス時代から慣れ親しんできた背番号51は、ヤンキースではイチロー自身も憧れていたバーニー・ウィリアムスがかつて付けていた番号ということもあり「とてもつけることはできない」と固辞し、背番号は31となった[58][注
移籍当日の“敵地”となったセーフコ・フィールドでのマリナーズ戦に「8番・右翼」で先発出場。第一打席に先発のケビン・ミルウッドから移籍後初安打・初盗塁を記録した。移籍当初はニック・スウィッシャーが故障離脱していたことに伴い本職の右翼で出場していたが、スウィッシャーの守備復帰以降は左翼手で主に起用され、チーム状況に合わせて右翼手や中堅手としても出場。打順は、移籍当初は下位で起用されることが多かったが、9月下旬からは主に2番で起用された。このシーズンは左投手を苦手としたため、相手先発が左投手の場合は先発から外れることも多かったが[59]、チームの故障者増に伴い、左投手の場合でも先発出場は増えていった。

7月30日にはヤンキースタジアムにて、ミゲル・ゴンザレスからメジャー通算100本塁打となる移籍後初本塁打を記録した。9月3週には、2010年9月以来の通算4度目となる週間MVPを受賞[60]。チームは10月3日のレギュラーシーズン最終戦に地区優勝を決め、イチローもシーズン最終打席にタイムリーヒットを打った直後に1ゲーム差で追っていたボルチモア・オリオールズがタンパベイ・レイズに敗れたため地区優勝が決定[61]。最終的にチームも勝利し、イチローにとっては2001年以来の12年ぶりの地区優勝を決めた。メジャーでは自身初のシャンパンファイトを経験した[注 20]。レギュラーシーズン全体の安打数は178安打と去年を下回る自己最低記録ではあったが、打率は.283と昨年を上回った。しかも、マリナーズ時代までは95試合で105安打、4本塁打、打点28、打率.261といった自己キャリア最低記録更新ペースの低迷であったが、ヤンキース移籍以降は67試合で73安打、5本塁打、打点27、打率.322と大幅に改善された。特に本拠地ヤンキー・スタジアムでの成績は打率.359であり、ヤンキース移籍後の本塁打は全てヤンキー・スタジアムでのものであるなど、この年のマリナーズで残した成績の打率.261、ホームセーフコ・フィールドでの打率.214、移籍前の4本塁打中3本はホームではなくロードゲームで打ったのとは対照的な成績となった。

ポストシーズンでは全試合で2番打者として出場。オリオールズとのディビジョンシリーズ第1戦では3安打の活躍を見せる。第2戦では二死一塁の場面でロビンソン・カノの二塁打の間に生還。この場面では、完全にアウトのタイミングで三塁を回ったが(三塁ベースコーチは本塁突入を指示している)、相手捕手のマット・ウィータースのタッチを2回かわしてホームインする活躍を見せた[62][63]。このホームインは各所で話題を呼び、「忍者」と言った呼び方[62][64] や、映画の『マトリックス』にちなんで「Matrix」[62][65][66]、「サルサダンス」などと呼ばれ大きな反響を呼び[62]、ESPNはこのスライディングを「ひょっとしたらヤンキースの歴史の中でも最高のスライディング (Ichiro Suzuki made perhaps the best slide in the history of the Yankees.)」と報道した[67]。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦では、9回にホセ・バルベルデからポストシーズンで初となる本塁打を放つなど6打数4安打4打点の活躍を見せたがチームは敗れ[68]、その後チームは4連敗を喫し敗退。敗退後は、「悔しい思いしかないが、こういう本来持っている気持ちを思い出させてもらったことに感謝している。色んなものを僕に与えてくれた。ここでしか味わえないものは確実に存在する」と語った[69]。

2007年にマリナーズと結んだ契約が終了し、プロ入り後初めてFAとなったオフには、イチロー自身が残留を望んでいるとされていたヤンキース[70] の他に、サンフランシスコ・ジャイアンツ[71]、フィラデルフィア・フィリーズ[72][73]、さらに日本球界では古巣のオリックス・バファローズ[74] と、出身地の愛知県を本拠地とする中日ドラゴンズ[75] が興味を示す報道があったが、12月19日にヤンキースと2年1300万ドルで契約を結んだことが発表された[76]。ヤンキースは1年契約を基本線としていたが、他球団が2年契約を提示していたことが明らかになり、方針転換したと言われる[76]。一部のファンなどからは背番号を長年慣れ親しんだ51に戻すべきという意見もあったが[77]、引き続き31を着用することとなった。

翌年3月に開催された第3回WBCについては、所属球団が決まっていない時期に日本代表での参加要請を受けたが、11月19日に代表参加辞退の意思を正式に表明[78]。「ボクの中で第2回大会を終えた時点で3回目の出場は考えられませんでした。今日までその気持ちが変わることはなくこういう形になりました」として[79]、第2回WBCの時点で既に第3回大会への参加は考えていなかったことを明かし、一方で「大会が着実に成長している」ともコメントした[80][81]。第2回WBCの東京ラウンド終了後、「僕にとって日本での最後のゲーム」と明言し、代表引退を示唆していた[82]。

2013年の黒田博樹とダルビッシュ有が先発した6月25日のテキサス・レンジャーズ戦(ヤンキースタジアム)では、9回裏2死にタナー・シェパーズから、ヤンキース移籍後初のメジャー2本目となるサヨナラ本塁打を放った[83]。7月14日のミネソタ・ツインズ戦でメジャー通算2000試合出場を達成[84]。2000試合出場時点での2696安打はタイ・カッブ、ジョージ・シスラー、アル・シモンズ、ロジャース・ホーンスビー、ポール・ウェイナーにつぐ6番目となった。

8月21日のブルージェイズ戦ではブルージェイズ戦に「2番、右翼」で先発し、1回の第1打席で、相手の先発投手R.A.ディッキーから左前打を放ち、NPB/MLB通算4000本安打に到達した[85]。9月8日のレッドソックス戦ではシーズン20個目の盗塁を成功させ、2001年のメジャーデビューから13年連続20盗塁以上を達成した。しかし、これがシーズン最後の盗塁となり、シーズン全体の成績も前年より下降してしまった。

2014年には両リーグで5番目に年長の選手となった[86]。前半戦終了時点では打率がチームトップの2割9分7厘,出塁率は同2位の3割4分7厘という成績だった。最終的には前年より少ない143試合の出場、102安打に止まりながら打率.284と前年を上回る成績を残したが、オフにFAとなった。

マーリンズ時代
2015年1月27日にマイアミ・マーリンズと年俸200万ドル+出来高の1年契約を結んだことが発表された[87]。背番号はオリックス、マリナーズでも着用していた51。この年、両リーグで3番目に年長の選手となった[88]。入団会見は球団社長やGMが来日して行われた。4月7日、開幕戦に代打で登場した際、ファンがスタンディングオベーションをし、イチローは「僕だって心は動く」と感動した[89]。

シーズンが始まり、チームは思うような成績は残せないものの、自身は様々な打順また代打などの色々な状況で攻守にわたり好調を維持していたが、夏の時期に差し掛かると自身ワーストの34打席無安打というスランプに陥った。しかし7月8日に35打席ぶりに安打を記録すると、7月20日の試合では2014年6月14日以来の3安打を記録。メジャー通算250度目の3安打となった。また、7月15日にはMLBでの各球団最高の4選手を選ぶフランチャイズ・フォーという企画があり、イチローはシアトル・マリナーズのなかで ケン・グリフィー・ジュニア、フェリックス・ヘルナンデス、エドガー・マルティネスと共に選出された。10月4日、シーズン最終戦のフィラデルフィア・フィリーズ戦の8回裏に投手として初めて登板した。1回を投げ被安打2、1失点、交代完了を記録し、球速の最速は89mph(143km/h)であった[90]。2015年は前年より多い153試合に出場したもののキャリア最低の91安打、打率.229にとどまった[91][92]。10月6日、マーリンズと来期の1年契約を結んだ。メジャーリーグ通算3000本安打まであと65本に迫っており、デビッド・サムソン(英語版)球団社長は「引き続き、第4の外野手として、今年と同じようにチームに貢献してもらいたい。3000安打の達成も、一緒に喜べたら素晴らしい」と話した[93][94]。

2016年には、両リーグで2番目に年長の選手となった[95]。4月29日のブルワーズ戦で史上38人目となる通算500盗塁を達成[96]。5月21日から23日にかけて、自身10年ぶり、42歳以上の選手としてはキャップ・アンソン以来122年ぶりとなる、連続3試合で10安打を記録した[97]。6月2日のパイレーツ戦でNPB/MLB通算700盗塁を達成した[98]。

6月15日の敵地パドレス戦で「1番・右翼」で先発出場し、1回の第1打席で捕手への内野安打で出塁し、ピート・ローズの持つMLB通算最多安打記録4256安打にNPB/MLB通算安打で並ぶ[99]。さらに第5打席でフェルナンド・ロドニーから右翼線の二塁打を放ちNPB/MLB通算4257安打となり、NPB/MLBの通算安打でMLB最多安打記録を更新する[100]。6月24日には6月15日にマークしたNPB/MLB通算4,257本目の安打がプロ野球における通算最多安打数の世界記録としてギネス記録に認定された。

アジア人初のMLB通算3000安打達成
2016年8月7日、敵地でのコロラド・ロッキーズ戦に「6番・中堅」で先発出場し、7回の第4打席でクリス・ルーシンからライトフェンス直撃の三塁打を放ち、史上30人目のMLB通算3000安打を達成。16シーズン目での3000安打到達はピート・ローズと並び史上最速タイ記録。3000本目の安打を三塁打で決めるのはポール・モリター以来、史上2人目であった。さらにこの三塁打で福本豊の持つ三塁打数の日本記録をNPB/MLB通算で更新し、単独1位の116本目とした。また、同一シーズンにメジャーリーグで3000本安打と500盗塁を同時達成したのは史上初である[101][注 21]。8月16日、レッズ戦にスタメン出場し、9回の第4打席でライトへ三塁打を放ち、メジャー通算3004安打目にしてメジャー全30球団の本拠地で安打を記録した。29日のメッツ戦では4回に左前打を放った後、シーズン10個目の盗塁を記録し、NPB/MLB通算でメジャー最多リッキー・ヘンダーソンと並ぶ23年連続2桁盗塁を成功させた[102]。9月6日のフィラデルフィア・フィリーズ戦において代打で出場し、NPB/MLB通じて自身初の代打本塁打を放った[103]。9月13日のアトランタ・ブレーブス戦で史上12人目となる通算900試合目の複数安打を達成した[104]。10月5日、2017年における球団側が選択権を持つ契約オプションが行使されてチーム残留が決まり、2018年における球団側が選択権を持つ契約オプションが新たに追加された[105]。

なお、同年オフに楽天から戦力外通告を受けた後藤光尊が現役を引退したことにより、オリックス・ブルーウェーブに所属していた唯一の現役選手となった。

2017年4月19日、セーフコ・フィールドでのマリナーズとの最終戦では、ビジターの選手では異例の首振り人形が配布された[106]。その試合で先発出場し、最終打席で本塁打を放ち、マリナーズファンは惜しみないスタンディングオベーションを送った[107]。なおこの本塁打でNPB時代からつづくシーズン連続本塁打記録を25シーズン連続と伸ばし、リッキー・ヘンダーソンのもつメジャー記録に並んだ。またこれでMLB通算761打点とし、松井秀喜の760打点を超え、日本人メジャーリーガーで歴代1位となった[108][109]。6月25日、カブス戦に「1番・中堅」で先発出場。43歳246日での中堅手としての先発出場は、2002年7月24日、当時ボストン・レッドソックス所属のリッキー・ヘンダーソンが記録した43歳211日を抜き、メジャー史上最高齢記録となった(その後も数試合で先発し、9月18日に記録を43歳331日に更新)。9月7日、ナショナルズ戦の5回に代打で出場して中前安打を放ってNPB/MLB通算5863塁打とし、王貞治が持っていた日本記録を日米通算で塗り替えた[110]。また、右翼手として史上8人目となる通算4000刺殺に到達した。11月3日、2018年における契約オプションが行使されず、マーリンズを退団することが発表された[111]。

マリナーズ復帰
2018年、自身にとって初めてキャンプイン時に所属球団が決まっていない状態となり、日本で自主トレーニングをしていたが[112]、3月7日に正式にマリナーズとの1年契約が発表された[113]。年俸は75万ドル、出来高でマイアミ時代の年俸である200万ドルまで増額されると伝えられた[114]。

3月14日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では右ふくらはぎの張りのため試合途中で退き[115]、復帰直後の3月24日のマイナーリーグの練習試合ではブランドン・マンから頭部死球を受け、2004年以来となる同事象での負傷退場となるなど不安を抱えていたが[116]、3月29日、「9番・左翼手」として自身5年ぶりの開幕スタメン出場。その開幕戦では、セーフコ・フィールドのレギュラーシーズンの試合としては歴代最多となる4万7149人の観衆が詰めかけ、イチローの第一打席をスタンディングオベーションで迎えられた[117]。これに対し試合後、「こんな風にしてもらったら、もう、この先はシアトルを離れたくないなという気持ちになりますよね」と語った[118]。その後は15試合の出場で9安打、打率.205に留まる。そして5月3日、マリナーズと「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」の契約を結び、選手としては今季の残り試合は出場しないことが発表された[119]。

2019年1月24日にマリナーズとマイナー契約を結んだ[120]。3月20日にメジャー契約に切り替わり、20日・21日に東京ドームで行われるアスレチックスとの開幕2連戦でともに9番右翼手として先発出場、45歳149日でのメジャー開幕戦先発出場は千葉ロッテマリーンズにも所属していたフリオ・フランコの45歳227日に継ぐ野手2番目の年長記録となった。

引退
2019年3月21日、開幕シリーズとなる東京ドームで行われたアスレチックス戦2試合に出場後、引退を発表[121][122]。現役最終打席は8回表遊ゴロであった。これによりプロ入り後28年目で初のシーズン無安打となった。またこの試合で菊池雄星が先発登板しメジャーデビューを果たした。試合終了後には東京ドームを一周したが、その際には試合を最後まで観戦した多くのファンが球場に残りイチローの現役選手としての最後の姿を見届けた。

なお、イチローは「オリックス・ブルーウェーブ在籍経験選手」としてプレーした最後の選手であった[123]。イチローが引退したことによりオリックス・ブルーウェーブに在籍した経験のある選手はNPB・MLBを含めて全て現役を退いたことになった。

9月14日、本拠地シアトルでのホワイトソックス戦前に、球団に貢献し、大きな功績を残した人物に贈られる、特別功労賞の「フランチャイズ・アチーブメント賞」を受賞した[124]。

選手としての特徴
走攻守すべての面で非常に高い評価を得ているオールラウンドプレイヤーとして、数多くの記録を打ち立ててきたことにより、将来の野球殿堂入りが確実視されている[125]。

打撃
マリナーズ時代はほとんどの試合で1番打者を務めた。歴代シーズン最多単打記録を保持し、後述する俊足から内野安打が多く安打の内容は単打の割合が高い。2009年9月にメジャー通算2000本安打を達成した時点では、そのうちの452本が内野安打であった[126]。日本では特にオリックス時代の後期にチーム事情から中軸打者を務めていたこともあって長打を放つことも多かったが、メジャー移籍後は「振り子打法」を止め、より単打の多い打撃となっている。

バッティングスタイルは、変化球を狙い速球を“詰まりながら”内野と外野の間に落とす。または、あえて相手投手の決め球を狙って打ちにいくという[127]。バッティングフォームが「打った直後、すでに右足が一塁を向いている」ため、俊足と相まって他の選手ならばアウトになるような内野ゴロが安打になることが多い。アメリカのメディアに「走りながら打っている」、「走りながら打つ忙しい選手」などと言われるように、左打者でかつスイングから走り始めるまでの一連の動作が速い分、本塁から一塁への到達時間が3.9 - 3.7秒と非常に短く[128][129]、バント安打の際には3.46秒を記録したこともあり[52]、2001年と2010年を比較して0.1秒ほど平均速度は遅くなっているものの[52]、2010年時点でも平均3.92秒[52]、バント安打で3.56秒を記録するスピードを誇る[52]。また視力は0.4程度だが眼鏡もコンタクトレンズも使用しておらず、ボールを点や線でなく立体的にとらえているという[130]。また、父親の幼少の頃からのトレーニングで左打者でありながら、左投手を苦にしなかった。

2001年のメジャーデビュー当初、当時マリナーズのチームメイトであったジョン・オルルドは、イチローの打撃について5通りの打ち方をすると評している。1つ目はランニング・ワン・ハンダー(半分走りながら片手で打つ)、2つ目はザ・リーナー(ボールに寄りかかりながら打つ)、3つ目はフィストカフ・スイング(なぐりつけるように流し打つ)、4つ目はチップ・スイング(ゴルフのチップショットのように打つ)、5つ目はパワースイング(力強く引っ張るバッティング)であるという[131]。また、2001年当時打撃コーチであったジェラルド・ベリーは、「彼は5種類のスイングができる。(1)スポイル。難しいストライクをファウルにする。(2)スラップ。軽くたたいて左に流す。(3)ストローク。ボールの下をたたいて中前に落とす。(4)スラム。野手のいない所へ力を入れてシュートする。(5)テニスのクリス・エバートのバックハンド。腕だけでコントロールしてボールをどこへでも運べる」と語り、「だけどね、何でそんなことができるのか、僕にはわからない」と笑って述べている[132]。

シーズン最多安打記録を更新した翌2005年には打率4割を期待する声も挙がったが、『ニューヨーク・タイムズ』紙はイチローのバッティングスタイルを考慮すると、4割の大台達成よりもむしろジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録を塗り替えるほうが現実的との見解を示した[133]。対して本人はインタビューでの『打率4割とメジャー最長記録である56試合連続安打、どちらのほうが達成は難しいか?』という問いで、56試合連続安打のほうを選んでいる[134]。

現役メジャーリーガーとしては小柄で、本塁打数も歴代シルバースラッガー賞受賞者の中では最も少ない部類に入る。ただし本塁打に関しては打てないというわけではなく、元マリナーズ監督のボブ・メルビンがケーブルテレビ局『ESPN』に「(試合前の)彼の打撃練習を見てみなよ。いつも山ほど(本塁打を)打っているよ」と語っており、ウェイド・ボッグスやタイ・カッブなどと同じくあえて試合では単打狙いに徹していると言われる[135]。コラムニストの木本大志は、イチローが内野安打を打った時と本塁打を打った時では、軸の位置に違いがあることを言及している[136]。イチロー自身も『ニューヨーク・タイムズ』紙に「僕にとって、フライを打ってから『あぁ、多分ホームランになるな』と思うシチュエーションになったことは一度もない」と語っている[137]。日本プロ時代の1995年に当時130試合制の1シーズンで25本塁打を放ち本塁打ランキングパ・リーグ日本人2位に輝いたほか、メジャー時代に1シーズンで15本塁打を放ったこともある。2007年のオールスター後のインタビューでは「(打率が)2割2分でいいなら、40本(打てる)と言っておきましょう」と冗談混じりに語った[138]。

四球を望まず積極的に打ちにいくタイプで[139]、三振・四球ともに少ない。特に三振の少なさに関しては、216打席連続無三振のNPB記録も保持している。 2000年5月13日の対ロッテ戦では、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにしている[140]。

1軍に定着したNPB時代の1994年シーズンからメジャー移籍後の2010年シーズンまで、17年連続で打率3割以上を記録し続け、その間に首位打者を9度獲得。さらにメジャーでの通算打率も.311の高打率を記録しているが、本人は「打率は変動するが、安打は積み重ねることができる」との理由から、打率よりも安打数を重視している[141]。2002年に行われたインタビューでも、「シーズンを終えて『199安打で4割』と『ジョージ・シスラーのメジャー記録を上回る258安打で3割9分9厘』、イチローはどちらを望むのか」と質問され「僕が210本のヒットを打った94年に、よく訊かれたことがあるんです。それは、『199本で4割ピッタリだったとして、次の打席はどうするか』ということだったのですが、いつも決まってこう答えていました。『決まり切ったこと、訊かないでください』と。もちろんそれは今も変わりません」と答えている[142]。また、NPB/MLB合わせて12回記録している最多安打は、すべて両リーグ最多安打である(メジャーでの最多安打を逃した2002年・2003年・2005年シーズンはすべてリーグ2位。不振に苦しんだ2011年に初めて9位に終わった)。

出場試合数や四死球数など外的な要因によっても数値が上下に大きく変動する打率よりも、一つ一つの積み重ねた結果が反映される安打数を重視するプレースタイルは、オリックス時代にイチローの打撃投手を務めていた奥村幸治の提案であった。1994年シーズンにおいて210安打を達成する際に、周囲の話題が上がり続ける「イチローの打率」に集中し、「ついに4割打者誕生か」と騒がれた。しかし、これではイチローと言えども気になりやすいということで、イチローが試合でのびのび打てるように、「安打数」に目をつけた[143]。後年奥村は「だからイチローに、“1日1本のつもりで積み上げていこうよ”と声をかけたんです。すると彼も、“いいですね”といって、それ以降、電光掲示板の打率を見なくなった。ただ僕は大変でした。大記録が近づくにつれ、周囲の期待がわかるから、“これはぶつけられないぞ”とね(笑い)」と語っている[143]。

川岡大次郎

川岡 大次郎(かわおか だいじろう、1978年3月14日 - )は、日本の俳優。大阪市東住吉区出身。身長178cm、体重58kg、血液型O型。所属事務所はオフィスニグンニイバ
来歴
大阪市立田辺中学校、常翔学園高等学校(2007年度まで大阪工業大学高等学校)卒業。
1997年、映画『タイムリープ』星野彰男役でデビュー。その後、数々のドラマ・映画などに出演。
2005年、テレビドラマ『救命病棟24時 第3シリーズ』出演時、役柄の研修医・河野純平として番組HP上で日記を書いていた。自身の趣味である菓子作りや兄弟役であった小栗旬とのエピソード等を公開。
2005年公開の映画『サマータイムマシン・ブルース』でSF研究会のメンバー・小泉俊介を演じ、同じくメンバー役だった与座嘉秋、ムロツヨシと共に「Z3(ズッスリ=『ズッコケ三人組』に由来)」を結成。映画のPR活動に参加した後、同じく本広克行監督の『UDON』(2006年、同名の役で出演)、『曲がれ!スプーン』(2009年)にも出演した。
2007年、俳優の吉岡毅志と「演劇集団スプートニク」を旗揚げ。メンバーは吉岡、川岡のほか粟島瑞丸、佐藤晴彦、福沢重文。
2010年7月30日付オフィシャルブログにて一般女性と結婚したことをファンに向けて報告。
2016年から2017年にかけて、テレビ番組『イチから住~前略、移住しました~』(テレビ朝日)の企画で、栃木県那須塩原市での移住生活を4か月体験[1][2]。
2017年11月、那須塩原市の「まちづくり大使」に任命[1]。
2018年、那須塩原市でほぼ全編を撮影した短編映画「HELP!!」をプロデュースし、「さぬき映画祭」にてグランプリを受賞した。
人物
「大次郎」という名前の由来は吉田松陰の幼少時の名前。
左利き(2006年出演の劇中で箸やペンを右で持っているシーンがあるが、過去の作品は殆どが左。また、菓子作りの様子を撮影した動画では左手を使っている)。
納豆が食わず嫌いで一度も口にしていない。山芋でじんましんが出たことがある。極度のくすぐったがりで他人に身体を触られるのが苦手で、自称・大のマッサージ嫌い。
好きな映画は『ニュー・シネマ・パラダイス』。尊敬する人物はオーストリアの建築家フンデルトヴァッサー、ミュージシャンの尾崎豊、漫画家の手塚治虫など。
特技は英会話と菓子作り。料理研究家・大川雅子主宰の焼菓子工房「SASSER(サッセ)」HP内で「川岡大次郎実験室=ダイジロウ・ラボ」というページで菓子作りの模様を公開。『救命病棟24時』の現場には自作のケーキを持って行き「女性出演者が多かったから喜ばれた」と番組HPで語ったほか、撮影中の小栗旬の誕生日には現場にバースデーケーキを持参している。ケーキは食べるのも好きで、ケーキバイキングに朝食を抜きジョギングをして挑んだことがある。
高校生の時に、東幹久に似ていると言われ、俳優を志しプロダクションに応募。ゴミ箱に捨てた書き損ねの履歴書を親が発見し、大学進学か俳優の道か、で議論。折衷案の専門学校に特待生として入学するが、プロダクションから合格の電話を受け、翌日に退学し上京。
ポエムをHPにて以前から書いていて独特な感性での文章を披露している。中学校の教諭から学級新聞に使いたいとメールが来たりするほど、時には深い内容を書き、時には撮影秘話や自身の恋愛観などを書いている。
映画『サマータイムマシン・ブルース』の舞台挨拶の司会をやりきった後に成功の嬉しさで号泣。同映画で結成されたZ3としてロケ地となった地元・エフエム香川の番組中に「いい作品に参加できてよかった」と号泣するという場面があった。その時にZ3メンバー・与座嘉秋に「大次郎は徳さん(徳光和夫)のポジションを狙ってる」と言われた。映画のHPで連載していた「ポエム・パラドックス=ポエパラ」を自身のHPで引継ぎ、一つの英単語をテーマにポエムを書いている。
出演
映画
タイム・リープ(1997年 監督:今関あきよし) - 星野彰男 役
OPEN HOUSE(1997年、監督:行定勲) - トモノリ 役
ゴト師株式会社 シリーズ
ゴト師株式会社 ルーキーズ THE MOVIE(1999年、監督:中田信一郎) - 主演・熱田熱志 役
ゴト師株式会社 ルーキーズ2(2000年、監督:中田信一郎) - 主演・熱田熱志 役
ブギーポップは笑わない(1999年、監督:金田龍) - 竹田啓司 役
スプートニク・バンケット(2000年、監督:倉田健次)
19(2001年、監督:渡辺一志) - 宇佐美 役
スペースポリス(2003年、監督:渡辺一志)
サマータイムマシン・ブルース(2005年、監督:本広克行) - 小泉俊介 役
UDON(2006年、監督:本広克行) - 小泉俊介 役
ガチ☆ボーイ(2008年、監督:小泉徳宏) - 佐田正樹/ドロップキック佐田 役
真夜中の宴「希望」(2008年、監督:深雪)
死神の精度(2008年、監督:筧昌也)
少林少女(2008年、監督:本広克行)
今日からヒットマン(2009年、監督:横井健司)
仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010(2009年、監督:田崎竜太) - ソウジ / 仮面ライダーカブト(声) 役(友情出演)
曲がれ!スプーン(2009年、監督:本広克行)
ダーリンは外国人(2010年、監督:宇恵和昭) - 伸介 役
THE LAST MESSAGE 海猿(2010年、監督:羽住英一郎)
フラレラ EPISODE2(2010年、監督:信藤三雄)
恋谷橋(2011年、監督:後藤幸一)
フォーゴットン・ドリームス(2012年、監督:日向朝子)
デスフォレスト 恐怖の森シリーズ
デスフォレスト 恐怖の森(2014年、監督:一見正隆) - 内田一輝 役
デスフォレスト 恐怖の森2(2015年、監督:一見正隆) - 内田一輝 役
デスフォレスト 恐怖の森3(2015年、監督:鳥居康剛) - 内田一輝 役
デスフォレスト 恐怖の森4(2016年、監督:鳥居康剛) - 内田一輝 役
デスフォレスト 恐怖の森5(2016年、監督:福田陽平・田中佑和) - 内田一輝 役
新選組オブ・ザ・デッド(2015年、監督:渡辺一志) - 山崎烝 役
テレビドラマ
レギュラー出演
ビーチボーイズ(1997年7月 - 9月、フジテレビ) - 内藤祐介 役
ビーチボーイズ・スペシャル(1998年1月)
最後の恋(1997年7月 - 9月、TBS) - 篠崎潤 役
WITH LOVE(1998年4月 - 6月、フジテレビ) - 木下健太郎 役
ボーイハント(1998年7月 - 9月、フジテレビ) - 松木竹之介 役
セミダブル(1999年4月 - 6月、フジテレビ) - 安東翔也 役
shin-D 20歳のエンゲージ(1999年7月、日本テレビ) - 恭介 役
科捜研の女 第2シリーズ(2000年10月 - 12月、テレビ朝日) - 染谷優 役
ドラマDモード グッド★コンビネーション(2001年6月 - 7月、NHK) - 小暮大造 役
連続テレビ小説(NHK)
てるてる家族(2003年9月 - 2004年3月) - 岡谷信夫 役
カーネーション(2012年3月) - 河瀬譲 役
花子とアン(2014年5月) - 望月啓太郎 役
救命病棟24時 第3シリーズ(2005年1月 - 3月、フジテレビ) - 河野純介 役
愛の劇場 スイーツドリーム(2006年9月 - 10月、TBS) - 西島剛 役
NHK大河ドラマ 龍馬伝(2010年1月 - 11月、NHK) - 高松太郎 役
よる★ドラ 恋するハエ女(2012年11月 - 12月、NHK) - 高木誠也 役
破門(2015年1月 - 、BSスカパー!) - 三好茂夫 役
単発ドラマ・ゲスト出演
楽園への橋(1998年6月29日、よみうりテレビ) - 慎二 役
あきまへんで!(1998年、TBS)
ケイゾク 第4話(1999年1月、TBS) - 成合孝 役
ただいま 第4-5話(2000年3月、NHK)
君の手がささやいている 第4章(2000年10月、テレビ朝日) - 寺西 役
火曜サスペンス劇場(日本テレビ)
臨床心理士2(2000年12月)
つぐない(2001年6月) - 小野寺誠 役
小京都ミステリー30 エジプト・パピルス殺人事件(2001年10月) - 大西次郎 役
ロケットボーイ 第6話(2001年2月、フジテレビ) - 萩尾 役
世にも奇妙な物語 春の特別編「太平洋は燃えているか?」(2001年4月、フジテレビ) - 本田時生 役
女と愛とミステリー いなか刑事・伊原泰三の退職捜査日誌(2002年1月、テレビ東京) - 小池刑事 役
ウエディングプランナー SWEETデリバリー 第1話(2002年4月、フジテレビ) - 樋口亮輔 役
負け組キックオフ(2002年10月、テレビ朝日) - 沢松 役
人情とどけます〜江戸・娘飛脚〜 第5話「最後の恋文」(2003年2月、NHK) - 冬吉 役
ダムド・ファイル file No.0016「監視カメラ 東海市」(2003年10月、名古屋テレビ)
女と愛とミステリー 特捜刑事・遠山怜子(2003年11月、テレビ東京) - 布施慎吾 役
特捜刑事・遠山怜子2(2004年11月)
金曜エンタテイメント 家裁判事・伊奈守草介の事件日誌(2004年5月、フジテレビ)
月曜ミステリー劇場 自治会長・糸井緋芽子社宅の事件簿5(2004年9月、TBS)
子連れ狼3 第7話(2004年8月、テレビ朝日) - 荒井仁四郎 役
おみやさん 第4シリーズ 第8話(2005年6月、テレビ朝日)
月曜ミステリー劇場 検察官・沢木穂乃歌2(2005年8月、TBS)
DRAMA COMPLEX 戦国自衛隊・関ヶ原の戦い(2006年1月、日本テレビ) - 浮田秀夫 役
八丁堀の七人 第7シリーズ 第5話(2006年2月、テレビ朝日) - 新之助 役
名奉行!大岡越前2 第2話(2006年4月、テレビ朝日) - 篠原和馬 役
新・人間交差点 第1話「引退記者のファイル」(2006年8月、NHK) - 光太郎 役
名探偵コナンドラマスペシャル第2弾「工藤新一の復活! 黒の組織との対決」(2007年12月、日本テレビ) - 天野翔一 役
新・京都迷宮案内5 第10シリーズ 第2話 (2008年1月、テレビ朝日)
ケータイ捜査官7 第5話「逃げる恋」(2008年5月、テレビ東京) - 安藤良介(A315) 役
藤子・F・不二雄のパラレル・スペース 第4話「かわい子くん」(2008年11月、WOWOW)
仮面ライダーディケイド 第16-17話(2009年5月、テレビ朝日) - ソウジ / 仮面ライダーカブト(声)、弟切ソウ / 仮面ライダーザビー(声) / フィロキセラワーム人間態(怪人態の声は望月健一) 役
金曜プレステージ 浅見光彦シリーズ33・後鳥羽伝説殺人事件(2009年4月、フジテレビ) - 桐山警部 役
TAXMEN「CASE6 童貞税」(2010年2月、テレビ神奈川/TOKYO MX) - 京極屋菊之助 役
鬼龍院花子の生涯(2010年6月6日、テレビ朝日) - 辻原誠 役
ドラマ10芸能社「フェイク編」(2011年3月、NHKワンセグ2)
金曜プレステージ 赤い霊柩車27・魔女の囁き(2011年4月8日、フジテレビ) - 沢イサオ 役
世にも奇妙な物語 '12春の特別編「7歳になったら」(2012年4月21日、フジテレビ) - 下平靖之 役
獣電戦隊キョウリュウジャー 第8話「ココドコ? めいろをぶっとばせ」(2013年4月7日、テレビ朝日) - 福井賢一 役
東京スカーレット〜警視庁NS係 第4話(2014年8月5日、TBS) - 桂井麻夫 役
新・ミナミの帝王 2万5千円の約束 第9作(2015年1月4日、関西テレビ)-緒方 役
花燃ゆ 第37-38話(2015年9月、NHK) - 松原誠一 役
山本周五郎人情時代劇 第11話「おもかげ抄」(2016年3月1日、BSジャパン) - 鎌田孫次郎 役
警視庁捜査一課9係 season11 第2話(2016年4月13日、テレビ朝日) - 荒木田裕之 役
民王(2016年) - 徳丸大悟
WEB
ハヴァ・ナイスデー「35度の彼女」(2006年、goo×短編.jp 監督:筧昌也)
ワンセグ物語(2008年、Sonyメモリースティック.com)
ミス・シャーロック/Miss Sherlock 第4話(2018年4月27日配信開始、Hulu) - 結城カイト 役
OVA
リング・オブ・ガンダム(2009年8月21日、「GUNDAM BIG EXPO」イベント上映) - エイジィ 役(声・モーションキャプチャー)
オリジナルビデオ
無認可保育園 歌舞伎町 ひよこ組!(2007年、監督:権野元) - 誠也 役
緋音町怪絵巻(2009年、監督:倉田ケンジ)
舞台
演劇集団スプートニク
壊れたラジヲ(2007年11月、新宿シアタープラッツ) - 主演
わが魂は輝く水なり(2008年5月、Bunkamuraシアターコクーン 演出:蜷川幸雄)
朗読劇 罠(2009年2月、シアター1010 演出:板垣恭一)
薄桜鬼 新選組炎舞録(2010年10月、天王洲 銀河劇場) - 山南敬助 役
方舟(2011年11月、俳優座劇場)
Uovo Project vol.1「殻の中の晩餐会」(2012年4月、せんがわ劇場)
吉本百年物語6月公演「舶来上等、どうでっか?」(2012年6月、なんばグランド花月)
「ORANGE」(東京・本多劇場 2013年3月28日 - 4月7日 13公演 大阪・森ノ宮ピロティホール 4月13日 2公演)
「ストレンジ・フルーツ」(東京・東京グローブ座 2013年5月3日 - 26日 31公演、大阪・シアタードラマシティ 5月28日 - 6月2日 9公演)
Uovo Project vol.2「ツギハギの五線譜」(2013年7月、中目黒SPEAK FOR ANNEX)
プロモーションビデオ出演
小田和正「こころ」(2007年8月、BMG JAPAN)
GIRL NEXT DOOR「Silent Scream」(2011年4月、avex trax)
広告
ブルボン「アイスミントガム」(1997年)
日本経済新聞社 (1999年)
ブリヂストン(2010年)

セントライト記念

セントライト記念(セントライトきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GII)である。1995年から菊花賞トライアルに指定[3]されており、競馬番組表での名称は「朝日杯セントライト記念(菊花賞トライアル)」と表記される[1]。

競走名のセントライト(父ダイオライト、母フリッパンシー)は1941年に横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)、東京優駿、京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)を制し、日本競馬史上初の三冠馬となった[3]。種牡馬となってからもオーライト(第15回平和賞優勝)やオーエンス(第21回天皇賞優勝)などの活躍馬を輩出し、1984年にはその功績を称えて顕彰馬に選出された[3]。

2014年より寄贈賞を提供する朝日新聞社は、東京など全国4ヶ所に本社を置く新聞社[4]。

正賞は朝日新聞社賞
概要
3着までの馬に菊花賞の優先出走権が付与されるトライアル競走[4]。外国産馬は、2007年より優先出走権が付与されるようになった[5]。

日本競馬史上初の三冠馬であるセントライトを記念して1947年に創設された、4歳(現3歳)馬限定の重賞競走[3]。創設時は東京競馬場の芝2400mで別定戦として行われていたが、施行距離や施行場は幾度かの変遷を経て、1980年から中山競馬場・芝2200m(外回り)で定着[3]。1955年までは牡馬限定戦で行われていた[3]。2014年からは競走名を「朝日杯セントライト記念」に改められた[3]。

地方競馬所属馬は1995年より出走が可能になった[6]。外国産馬は2001年より出走可能になり、2010年からは外国馬も出走可能な国際競走となった[6][7]。

競走条件
以下の内容は、2017年現在[1][2]のもの。

出走資格:サラ系3歳

JRA所属馬
地方競馬所属馬(後述)
外国調教馬(9頭まで)
負担重量:馬齢(牡・せん56kg、牝54kg)

菊花賞のステップ競走に指定されており、地方競馬所属馬は菊花賞の出走候補馬(3頭まで)に優先出走が認められ[8][9]、3歳春のクラシック競走・NHKマイルカップで2着以内の成績を収めた馬にも出走資格がある[8][9]。

賞金
2017年の1着賞金は5400万円で、以下2着2200万円、3着1400万円、4着810万円、5着540万円[1]。

歴史
1947年 - 4歳牡馬による別定の重賞競走として創設、東京競馬場の芝2400mで施行[3]。
1951年 - 出走条件を「4歳」に変更。
1955年 - 名称を「農林省賞典 セントライト記念」に変更(1957年まで)[6]。
1964年 - 名称を「ラジオ関東賞 セントライト記念」に変更(1981年まで)[6]。
1982年 - 名称を「ラジオ日本賞 セントライト記念」に変更(2011年まで)[6]。
1984年 - グレード制施行によりGIII[注 1]に格付け。
1987年 - GII[注 1]に格上げ。
1991年 - 3着までの馬に菊花賞の優先出走権が与えられる。[6]
1995年
指定交流競走となり、地方競馬所属馬が2頭まで出走可能になる[6]。
菊花賞トライアルに指定[6]。
2000年 - 地方競馬所属馬の出走枠を3頭に拡大[6]。
2001年
馬齢表示の国際基準への変更に伴い、出走条件を「3歳」に変更。
混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる[6]。
2003年 - 負担重量を馬齢重量に変更。
2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIIに変更[5]。
2010年
国際競走に変更され、外国調教馬が9頭まで出走可能となる[7]。
格付表記をGII(国際格付)に変更[7]。
2014年 - 名称を「朝日杯セントライト記念」に変更

氷川きよし

氷川 きよし(ひかわ きよし、1977年〈昭和52年〉9月6日 - )は、日本の演歌歌手である。

本名:山田 清志(やまだ きよし)。身長178cm。体重62kg。血液型はA型。レコード会社は日本コロムビア、芸能事務所は長良プロダクションに所属する。現代調ポップス系の楽曲を発表する際はKIYOSHI名義でも活動する。
来歴
福岡県福岡市南区出身。福岡市立大楠小学校・福岡市立高宮中学校を卒業後、福岡第一商業高等学校に進学して卒業。

2000年2月、「箱根八里の半次郎」で演歌歌手としてデビュー。同年末の日本レコード大賞を初めとする音楽賞・最優秀新人賞を総なめにした。

2001年には『オリコン ウィーク The Ichiban』(現:『oricon style』)誌の表紙を飾る。演歌歌手が同誌の表紙を飾るのは、『オリコン・ウィークリー』時代から数えても松村和子、城之内早苗に続いて3人目であり、男性演歌歌手では初めてのことだった。

2001年からリリースしている「演歌名曲コレクション」シリーズは、発売する度にオリコンアルバムチャート初登場ベストテン入りを記録している。また、シングルにおいても、2001年に発売した2枚目のシングル「大井追っかけ音次郎」で総合チャートベストテン入りして以降、「氷川きよし」名義のシングルは全てシングルチャートベストテン入りを果たしている。この記録を保持するのは、演歌歌手では氷川のみである。

2003年頃から、通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する氷川の代表曲(「箱根八里の半次郎」「きよしのズンドコ節」など)では、背景映像に氷川本人の出演する映像が多く採用されている。

2003年7月1日~25日納涼特別公演を中日劇場でした際、中日スポーツに初日から千秋楽までの公演の様子が掲載された[2]。

2006年、「一剣」で日本レコード大賞を受賞し、歴代4人目のレコード大賞3冠となった。2007年、「きよしのソーラン節」で日本有線大賞史上初の4回目の大賞受賞となる。2008年のNHK紅白歌合戦では白組の大トリを務めた。また、歌手活動以外にもタレント活動や歌謡劇への出演などを展開している。

特徴
楽曲
往年の演歌、昭和歌謡やムード歌謡、ポップスやロック調の歌まで、特定のジャンルにとらわれず歌唱する。「演歌名曲コレクション」シリーズなどのカバーアルバムを発表しているほか、『きよしとこの夜』などのテレビ番組ではポップス系の楽曲も数多く披露しており、KIYOSHI名義でのシングルCDも発表している。フジテレビ『ミュージックフェア』『FNSうたの夏まつり』『FNS歌謡祭』などではJ-POPを歌唱し、視聴者からも反響の声が大きかった。とりわけ『うたの夏まつり』でゆずとコラボレーションした「栄光の架橋」はその歌唱力が視聴者から絶賛され、菊川怜も『うたの夏まつり』で印象に残ったシーンとして氷川・ゆずのコラボレーションを挙げている。

歌う際の衣装は、和服ではなく洋服が多い。また、楽曲の振り付けは、複雑な動きを取り入れず、比較的簡単な手の動きのものが多い。これは、幼いファンから高齢のファンまでが覚えやすく、座ったままでも可能な動きであるよう考慮されているためである。

ビートたけしによる芸名の命名と応援
芸名の「氷川」は、所属事務所の長良プロダクションがあった東京都港区赤坂6丁目にある氷川神社、「きよし」は氷川の本名である「山田清志」に由来する。名付け親はビートたけし(北野武)であるとされるが、実際は事務所会長の長良じゅんが命名しており、長良が氷川をたけしに紹介した際には、既に「氷川きよし」という芸名でのデビューがほぼ決まっていた。長良は、新人歌手の氷川を売り込むため、話題作りとしてたけしを名付け親にしようと考えたという。この話はたけし自身が明かしている[3][4]が、一方で、その後もたけしは自らが名付け親であると公言することがある[5]。

氷川がデビューした年に初出場したNHK紅白歌合戦では、たけしも志村けんとともに氷川の応援前座として初出場した。また、この年の日本レコード大賞新人賞受賞でも、たけしは氷川の応援として登壇している。

人物
2000年にテレビ朝日系列で放送された『神出鬼没!タケシムケン』では知名度上昇のために街角を歩き続けたが、「箱根八里の半次郎」がヒットする前だったために一般人からの反応が薄く、「僕、本当に売れるんですかね?」と不安を述べていた。
一躍人気歌手となってからは、演歌界のプリンスと言われている。
2013年9月に放送された『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」コーナーでは、元来心配性で思い詰めやすく、ツアーが満員になるにもかかわらず気分が沈んでしまい、「落ち目なのか?」と考えることがあると告白した。また、5年ほど訪れていない都道府県にツアーなどで再訪する際は不安になると語った。2012年5月、所属事務所会長の長良じゅんがハワイで事故死してからは、このような傾向が顕著となる。2013年9月9日に行われた日本酒「白鶴 まる」の新CM発表会見でも、不安に怯えて宿泊先で絶叫する癖や、休日に泥酔するまで酒を飲む習慣があることを語っている[6]。
育ての親である長良が亡くなった当初は落ち込んでいる様子であったが、その後は完全に復調し、精力的に仕事を行っている。
ドラゴンボール好きでも知られ、野沢雅子のギネス記録認定式にも駆け付けた
その他
浅草人情
あの娘は行っちゃった
月太郎笠
近江の鯉太郎
花の渡り鳥
北荒野
純子の港町
あのままあの娘とあれっきり
霧笛の波止場
玄海竜虎伝
送恋譜
でんでん虫
口笛の港
故郷はわが胸に
未来/believe〜あきらめないで〜 - 「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」主題歌、挿入歌。KIYOSHI名義
SAY YES - CHAGE and ASKAの楽曲。ポップスの曲で一番得意として、NHK教育のトップランナー出演時に歌った
きよしのチキチキOHAソング - 「おはスタ」のテーマソング(2016年11月7日 - 2017年9月29日)。氷川きよし with コケッコ組名義
受賞歴
歌謡分野
2000年:歌唱曲『箱根八里の半次郎』
第42回日本レコード大賞・最優秀新人賞
第33回日本有線大賞・最優秀新人賞
全日本有線放送大賞・最優秀新人賞
ゴールデン・アロー賞・音楽新人賞/最優秀新人賞
日本作詩大賞・大賞 - (実際は作詞した松井由利夫が受賞したが、デビュー曲が受賞したのは史上初)
2001年:歌唱曲『大井追っかけ音次郎』
第43回日本レコード大賞・金賞
第34回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
オールジャパンリクエストアワード(旧全日本有線放送大賞)・ゴールデンアーティスト賞
2002年:歌唱曲『きよしのズンドコ節』・『星空の秋子』
オールジャパンリクエストアワード・グランプリ(演歌・歌謡曲部門)
第44回日本レコード大賞・金賞
第35回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
2003年:歌唱曲『白雲の城』
第36回日本有線大賞
ベストヒット歌謡祭(旧全日本有線放送大賞)・グランプリ連覇(演歌・歌謡曲部門)
第45回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞
ゴールデン・アロー賞・音楽賞/大賞
東西有線大賞独占V1達成
2004年:歌唱曲『きよしのドドンパ』・『番場の忠太郎』
第37回日本有線大賞連覇
ベストヒット歌謡祭・グランプリ3連覇(演歌・歌謡曲部門)
第46回日本レコード大賞・金賞
東西有線大賞独占V2達成
2005年:歌唱曲『初恋列車』・『面影の都』
ベストヒット歌謡祭・グランプリ4連覇 - (演歌・歌謡曲部門、4連覇達成は浜崎あゆみに次いで史上2人目)
第38回日本有線大賞 3連覇 - (この受賞でテレサ・テンに次いで2人目、男性歌手としては初めての東西有線大賞3連覇達成)
第47回日本レコード大賞・金賞
2006年:歌唱曲『一剣』
第48回日本レコード大賞
2007年:歌唱曲『あばよ』・『きよしのソーラン節』
第40回日本有線大賞
第49回日本レコード大賞・金賞
2008年:歌唱曲『玄海船歌』・『哀愁の湖』
第41回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
第50回日本レコード大賞・優秀作品賞
2009年:歌唱曲『ときめきのルンバ』
第42回日本作詩大賞
第42回日本有線大賞
第51回日本レコード大賞・優秀作品賞
2010年:歌唱曲『虹色のバイヨン』
第43回日本有線大賞
第52回日本レコード大賞・優秀作品賞
2011年:歌唱曲『情熱のマリアッチ』
第44回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
第53回日本レコード大賞・優秀作品賞
2012年:歌唱曲『櫻』
第45回日本有線大賞
第54回日本レコード大賞・優秀作品賞
2013年:歌唱曲『満天の瞳』
第46回日本有線大賞
第55回日本レコード大賞・優秀作品賞
2014年:歌唱曲『ちょいと気まぐれ渡り鳥』
第47回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
第56回日本レコード大賞・優秀作品賞・編曲賞
2015年:歌唱曲『男花』『愛しのテキーロ』
第48回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
第57回日本レコード大賞・優秀作品賞
2016年:歌唱曲『みれん心』
第49回日本有線大賞・有線音楽優秀賞
第58回日本レコード大賞・優秀作品賞
2017年:歌唱曲『男の絶唱』
第50回日本有線大賞・日本有線大賞
第59回日本レコード大賞・優秀作品賞
2018年:歌唱曲『勝負の花道』
第60回日本レコード大賞・優秀作品賞
2019年:歌唱曲『大丈夫』『最上の船頭』
第1回日本演歌歌謡大賞・大賞
その他
第14回日本ジュエリーベストドレッサー賞男性部門

安室奈美恵

安室 奈美恵(あむろ なみえ、1977年9月20日[2] - )は、日本の元歌手、元ダンサー。本名同じ。身長は158cm[2]、血液型はO型[2]。沖縄県那覇市出身。「安室ちゃん」「奈美恵ちゃん」という愛称がある。1990年代に数多くのヒット曲を生み出し、アムラー等の社会現象を引き起こし、平成を代表する歌姫としての地位を築いた。40歳の誕生日を迎えた2017年9月20日、公式サイトにアップしたメッセージにて、芸能界を引退することを発表(詳細後述)。2018年9月16日をもって引退した
概要
人物
小室哲哉は第一印象について、「たまたま見た『THE夜もヒッパレ』でTRFの楽曲を歌っていた事から、『TRFの曲は楽勝で歌って踊れるんだ』とプレゼンしていると勝手に感じた」「イメージは『TRFの10代バージョン』『渋谷の109で見かけそうな感じ』でやったらすごくはまるだろうな、と考えた」「シャイな感じだけど『とにかく大きい所でコンサートをやりたい、ジャネット・ジャクソンみたいなブラックミュージックをやりたい、コーディネーションはこのスタイルでいきたい』と明確なイメージを一人で用意し、話せる子だった」[6][7][8]と話している。姿勢に対しては「僕は安室さんのプライベートとビジネスの両方を見ているわけではありませんが、プロフェッショナルなパフォーマーとしての彼女と普段の彼女というのはどの瞬間に変わるのか、いつも不思議に思っていました。彼女は実際に仕事では淡々としていて、喜怒哀楽を表に出す方ではないと思います。だから彼女はレコーディングやステージを『言葉ではなく、本能的な集中力でやっているのではないか?』と感じました。アドレナリンが分泌するというか、本能的に頭がスッと指令を出す時があるのではないでしょうか。レコーディング等では、曲の時間軸、つまりイントロからエンディングまで曲が進んでいくプロセスがあります。彼女にはそういった時間軸に乗った集中力を感じます。音楽が始まると窓を開き、音が消えると閉じるような感覚。そこが彼女の魅力だと思います」[9]「本当にあまり喋らない子でした。10割あったとしたら2割しか話さない様な子で。でも、その残りの8割が逆にインスパイアを受けたり、彼女の姿を想像しながら書けた曲が多いんです」「最初から芸能人というよりアーティスト。テレビ出演等を頑張ってやっていた時期もあったけど、奈美恵ちゃんは『歌とダンスがやりたい』『自分のことを喋りたくない』という意思を首尾一貫していました。女の子としての隙は全く見せなかったです。プライベートもわからないし、そこは徹底していたと思います」[10]と語っている。
マーク・パンサーは「皆と飲んで騒ぐような子ではなくて、真面目。当時の小室さんの周りには、ごまをする人や言いなりの人が多い中、安室ちゃんだけは自分を貫いていた」「『TK PAN-PACIFIC TOUR '97 IN TAIPEI』の時、アーティスト・スタッフ全員が高級ホテルの1フロアの全部屋を貸切にして泊まる中、安室ちゃんだけ別の場所に泊まっていた。徹底して距離をとって媚びない彼女は近くで見ていても格好良かった」と語っている[11]。
Nao'ymtは「ストーリー性のあるライブを行う方でした。MCを出さないのも生々しさを出したくないからであって、ファンタジーなエンターテイメントの世界を表現している」「お互いほとんど話さずに淡々と作業していました。リクエストはあっても一言ぐらい。私は制作に徹して、安室さんは歌に徹した関係性が良かったです。ダメなものはダメだし、良かったらそう言ってもらえるから、作っていて楽しい」[10]と語っている。
田家秀樹は「1990年代の女性アーティストの特徴は、女性の支持の割合が大きいことだろう。女性アーティストのステージに女性の歓声が飛ぶという光景は決して一般的ではなかったことを思うと、それは正に時代を反映していた。消費マーケットの主体が女性になるという1990年代の傾向でもあった。そういう意味での影響力は安室奈美恵を置いて語れないだろう」「安室奈美恵は、『お茶の間から生まれなかった始めてのアイドル女性歌手』と言っていいのではないだろうか。どこにでもいる女の子が、ブラウン管の中で輝いている。誰でもそんな風にスポットライトを浴びる可能性がある。スター性とは対極にあるそんな『普通さ』は、お茶の間とどこかでつながる価値観を持っていた。安室奈美恵はそうではなかった。彼女が発散していたのは、『どこにでもいる女の子』というお茶の間っぽさではなかった。彼女が好んだファッションはお茶の間よりストリートに良く似合った。彼女に自分を託す女の子はまず、ストリートに身を晒すことから始めた」「R&Bという音楽は従来は『子供の音楽』ではなかった。そこに彼女の歌いこなしや感情の抑制、激しい踊りがついた。少女達にとって安室奈美恵はアイドルと言うより、『憧れの大人』の象徴だったのではないだろうか。彼女は1990年代の少女達にとっての『書を捨てよ町へ出よう』だったのかもしれない」「1990年代の女性アーティストを取り巻く環境と、それ以前との最大の変化は『出産』や『結婚』をめぐるものだろう。『スターである』という虚像性と『人間としての幸せ』という実像性の両立。かつては二者択一しかありえず、どちらかを捨てることでしか手に入れられないとされてきたものが両立する。安室奈美恵があれだけセンセーショナルに騒がれたのは、それまでのアイドルがそうでなかったという背景もあると思う」と評している[12]。
日本一と言える程に熱烈なファンであるイモトアヤコに対して感謝したいとして『イッテQ!』のドッキリに参加し、その後のホテルでの対談中は『イッテQ!』におけるイモトの挑戦や安室ファン振りを日常的に視聴している事を語ったが、その後のイモトとの交流は一切行っていない[13]。本件はあくまで『イッテQ!』のサプライズ企画でしかなく、イモトに対してプライベートな連絡先は一切教えていない上に、イモト自身もそのような軽々しい関係は望んでいない。
引退日の2018年9月16日に出身地の沖縄県で行われた「We♥ NAMIE HANABI SHOW」ではサプライズ出演を行うことはなく、浴衣を着てファンと同じ客席からひっそりと花火を眺めていた[14]。ファンとの一体感を何よりも大切にして来た、安室奈美恵らしい活動の締め括りであり、明日から一般人として過ごすことを自覚した姿がそこにはあった。
引退後の2019年1月20日に放送されたNHK系列「平成史スクープドキュメント 第4回 『安室奈美恵 最後の告白』」内にて、引退の理由について、活動を継続する上での身体的な不安を挙げており、「ちょっと声帯もいろいろと壊してしまって、そういう不安もあったりもしていたので。そろそろ声帯も限界なのかなとか、声もうまく出ないなとか、そういうのもあったので」と2010年頃から喉に異変を感じていた事を公表し、「いい状態の安室奈美恵をファンの思い出に残したい。」と語っていた[15]。声帯を壊し患っていたことについては、この番組で初めて公表した。namie amuro Final Tour 2018 ~Finally~におけるライブのラスト曲が小室哲哉による16年振りの新曲であったことについては、「最後に新しい自分を示して終わりたかった。」としている。
引退後もマスメディアにより復帰の可能性が語られているが、デビュー当時から引退の時期を継続的に考え続けた結果として、活動25周年かつ年齢が40歳という記念すべき年に引退するという結論を出したことや、ブレない信念を売りにしていた事実を考えると、まず有り得ないと言える[16]。
週刊誌などに取り上げられることを嫌っており、ラストコンサートの数日前に、本人の代理人弁護士から取材自粛要請が出されている。その中で「安室のプライバシーに関する記事や名誉を棄損する記事等が掲載された場合には、一般私人への権利侵害行為として、しかるべく法的措置を講じることになります」としているため、取材リスクが大きく、本人の引退後の動向について新しい情報が出る可能性も無くなった[17]。取材自粛要請は芸能界において過去に前例がない要請である。
影響力
1996年 - 1997年、茶髪のロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなどといった彼女のファッションスタイルや髪型、メイクなどに憧れる若い女性たち、いわゆる"アムラー"が大量発生した「アムラー・ブーム」を巻き起こし、社会現象となった[18]。
詳細は「アムラー」を参照
ミリオンヒット作を次々と世に送り出し、1997年には10代シンガーとしては日本の音楽史上初となるシングル・アルバム総売上げ2000万枚突破を記録[19]。
2008年7月にリリースされたベストアルバム『BEST FICTION』で、史上初となる10代・20代・30代の3つの世代でのミリオンを達成し、再び返り咲いた(詳しくは#2005 - 2011年 : ソロデビュー10周年を参考)。後にこの記録は、2017年11月リリースのベストアルバム『Finally』(40代)で更新された。
1998年の産休中、浜崎あゆみや宇多田ヒカルといった新たな国民的歌姫が続々と登場する中、復帰した後も人気を維持した。
ファン層に関しては、20代から30代後半までの半数がターゲットとなっていたが、老若男女問わず幅広い世代からの支持を獲得した。また、2008年の再ブレイク以降、邦楽女性ソロアーティストのトータルセールスとしては唯一の年間TOP10位入りを果たした。
近年のライブでは毎年開催されるほどチケットは即売され、非常に入手困難な為、プラチナ化となるほどだった。引退日に行われた「We♥ NAMIE HANABI SHOW」のチケットに至っては、本来無料イベントであるにも関わらず、転売市場において18万円近くの値が付いている。引退発表後の1年間に渡って行われた各種特別企画の経済効果は1000億円超と推測されている[20]。引退日の2018年9月16日には数多くのファンが渋谷109前にかつての「アムラー」の姿で集結し、「アムロス」と呼ばれる状況が生まれつつあることも明らかになった[21]。
2017年9月16日から2018年9月16日の引退準備期間は、日本に存在するありとあらゆるメディアを巻き込んだ大騒動に発展した。特に、2018年9月1日頃から2018年9月18日頃まで、日本中のマスメディアが安室奈美恵の引退に関する動向を常時報じたため、日本全国で安室奈美恵のニュースの嵐とも言える状況が生まれた。ニュースを介して、大部分の著名人が引退を惜しむメッセージを発表した。
音楽性
東芝EMI時代はポップス調やユーロビートの楽曲を歌っていたが、avexに移籍して小室哲哉プロデュースが始まると、徐々にブラックミュージック色の強い曲が増えていった。いわゆる小室ファミリーの中でも特異な存在だった[19]。
1999年に産休から復帰すると、TLCやMonicaの作品でも知られる海外大物プロデューサーのダラス・オースティンを起用するなど本格的R&B路線を志向し、2001年発売のシングル「think of me/no more tears」を最後に小室プロデュースを離れる[19]。
2002年 - 2003年のSUITE CHICとしての活動以降、自身で「GIANT SWING PRODUCTIONS」のT.KURAとMICHICO、Nao'ymtなど新たなクリエーターたちの楽曲を選曲し、自らアイデアを出すなど楽曲制作においてセルフプロデュースを行うようになり、ジャパニーズR&Bの女王としての地位を確立していく。特にMICHICOによるリアルな女性像を描いたキャッチーな歌詞は、多くの女性たちの心を掴んだ[19]。
ハイレゾ音源のリリースは2004年1月28日に発売された、『181920』と『LOVE ENHANCED ♥ single collection』のDVD-Audio盤のみである。音源は96kHz/24bitのフォーマットで収録されている。DVD-Audio盤は既に稀少品となっている。
2010年代はavex関連の外国人プロデューサーを起用し、EDMを交えたその当時の最新のR&Bを体現した楽曲が中心となる[19]。
ネットで音楽が簡単に聴けるようになった2010年以降はテレビなどのメディア露出を控えてライブ中心の音楽活動にシフトしていった[19]。
2018年9月16日の引退に対しても手抜かりはなく、1年前から活動終結のストーリーを綿密に計画して臨んだ。
来歴
生い立ち - 沖縄アクターズスクール時代
沖縄県那覇市首里に3人兄妹の末っ子として生まれる。小学5年生の時、友達の付き添いでタレント養成所「沖縄アクターズスクール」へレッスンを見学に行った際、同校のマキノ正幸校長にスカウトされる。家庭の事情から月謝が払えないとの理由で一度は入校を断念するものの、校長に見込まれて異例の特待生として入校する。小学生時代は片道約1時間半の距離を徒歩で週3日通う生活を送っていた[22]。入校時は人見知りが激しく引っ込み思案であったが、ほどなくしてRBC琉球放送のローカル番組『HOTNIGHT おきなわ愛ランド』で行われたカラオケ大会に出場し、見事優勝したことで周囲を驚かせた[注 1][23]。当初は女優志望で芝居の稽古などもしていたが、スクール内で観たジャネット・ジャクソンの楽曲「Rhythm Nation」のミュージック・ビデオに衝撃を受けて以来、歌とダンスに没頭する[24]。
1992 - 1995年 : SUPER MONKEY'S時代
「SUPER MONKEY'S」も参照
1991年、中学2年生の時にアクターズ内から選抜されたダンスパフォーマンスグループ"SUPER MONKEY'S"の結成メンバーに選出される。グループは地元沖縄のRBC琉球放送で琉球空手などのパフォーマンスを披露するなど活動していたが、これが東京のテレビスタッフの目に留まり、平哲夫がスクールと協力契約を締結したことでライジングプロダクションとの関係が始まる。
1992年より、全国区での芸能活動を開始。
年初よりロッテのTVCMの放送が始まり、バラエティ番組などにも出演を果たす。
1992年、9月に三井グループの東芝EMI(現・ユニバーサルミュージックLLC)より「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」でメジャーデビューし、センターボーカルに起用される(オリコン最高位29位)。
1993年1月から、ドラマ『いちご白書』に準主人公として出演。
ロッテ「マスカットガム」CM放送開始。
4月から、NHKの音楽番組『ポップジャム』のPJ:G(ポップ・ジャム・ガールズ)としてグループでレギュラー出演。
5月、アニメ『忍たま乱太郎』の初代EDテーマに起用されたシングル「ダンシング・ジャンク」をリリース(オリコン最高位68位)。カップリング曲の「レインボー・ムーン」は安室の初ソロ曲となる。
11月、ロッテガムのCMソング「愛してマスカット」をリリース(オリコン最高位67位)。
12月、第44回NHK紅白歌合戦にてグループは森口博子のバックダンサーとして出演。
1994年、4月よりフジテレビ系『ポンキッキーズ』に鈴木蘭々とのコンビ"シスターラビッツ"としてレギュラー出演開始(~1996年まで)。
同7月にシングル「PARADISE TRAIN」をリリース(オリコン最高位137位)、同時にグループ名を「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」へと改名。
同時期にライジングの平哲夫からavex traxのMAX松浦を紹介され、次シングルでのプロデュースが決まる。
1995年(8月まで)
1995年1月、松浦のプロデュースによるユーロビートのカバー曲「TRY ME 〜私を信じて〜」をシングルリリース。同曲はミナミスポーツのCF曲に起用され、自身も出演した。オリコン初動は49位と振るわなかったが、有線を中心に上昇し、ディスコ等でのユーロブームも重なり累計売上73万枚の大ヒットとなった(オリコン最高位8位)。
4月から日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演(~1997年まで)。
同月、ユーロビートカバーの「太陽のSEASON」を安室奈美恵単独名義でリリース(オリコン最高位5位)、これが事実上のソロデビュー作となる[注 2]。
この頃、松浦の仕事のパートナーであった小室哲哉と出会う。8月26日に行われた『avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP』の東京公演で、当時未完成の「Body Feels EXIT」を初披露している。
1995 - 2000年 : 小室哲哉プロデュース時代
1995年(10月以降)
1995年10月、SUPER MONKEY'Sの楽曲を含んだファーストアルバム『DANCE TRACKS VOL.1』を東芝EMIよりリリース。初のオリコンチャート首位を獲得し、オリコン及び出荷ベースで初のミリオンセラーを記録した。
翌週には小室哲哉プロデュース第1弾シングル「Body Feels EXIT」をリリースし、同時に三和グループのavexへレコード会社を移籍。以降は小室がプロデュースを担当する。
12月、小室第2弾シングル「Chase the Chance」がシングルで初のオリコンチャート首位、ミリオンセラーを記録した。
12月31日、『第37回日本レコード大賞』に初めてノミネートされ、「TRY ME 〜私を信じて〜」で優秀作品賞を受賞。
同日、『第46回NHK紅白歌合戦』に「Chase the Chance」で初出場[注 3]。
1996年
1996年発売のシングル「Don't wanna cry」(3月)、「You're my sunshine」(6月)、「a walk in the park」(11月)がミリオンセラーを記録。
3月、翌々の5月にかけて初の日本武道館公演を含む全国ツアー『mistio presents AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S TOUR '96』(8万人動員)を開催。
7月、セカンドアルバム『SWEET 19 BLUES』がリリースされ、トリプルミリオンを突破する。同アルバムは出荷350万枚と当時の過去最高記録を達成するなど、10代の歌手としての記録も次々と塗り替えた。
8月、翌9月にかけ、野外ライブ『SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S』を開催し、女性アーティストでは史上最年少記録(当時18歳)でのスタジアム公演を行う。同ライブを以って「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」としての活動を終了し、安室奈美恵、MAXとして完全に独立、以降のツアーは完全ソロ公演となる。
12月、彼女を真似する女性を指した"アムラー"がこの年の流行語大賞に選出される。
12月31日、『第38回日本レコード大賞』で「Don't wanna cry」で史上最年少(当時19歳)での大賞を受賞[25]。
同日、『第47回NHK紅白歌合戦』に「Don't wanna cry」で出場。
この年、東映系映画『That's カンニング! 史上最大の作戦?』の主演[注 4]や、初の写真集『#19770920』も発売した。自身が学んだ沖縄アクターズスクールも注目を集め、沖縄出身アーティストの先駆けとなるなど、その人気は社会現象となった。
1997年
1997年1月、ドラマ『バージンロード』主題歌に「CAN YOU CELEBRATE?」が起用され、翌2月にシングルリリースされると売上初動が同年首位となる記録を見せ、7週目にはダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。同時に、邦楽女性ソロアーティスト歴代1位のシングル売上を記録した[注 5]。
3月、前年の売上を対象とした第11回日本ゴールドディスク大賞で邦楽部門大賞を初受賞。
3月23日から5月18日まで[26]、ライブツアー『Namie Amuro tour 1997 a walk in the park』を開催(12万人動員)。
4月、プロ野球の開幕戦・巨人対ヤクルト戦(東京ドーム)の始球式に登板。
5月、台湾で開催された『TK PAN-PACIFIC TOUR '97 IN TAIPEI』に出演。
同月、10枚目のシングル「How to be a Girl」をリリース。
6月、ソロ名義でのシングル総売上が史上最速記録(2年1ヶ月)で1,000万枚を突破した。
7月、3枚目のアルバム『Concentration 20』をリリース。
アルバムを引っさげて初の4大ドームツアー『mistio presents namie amuro SUMMER STAGE 1997 Concentration 20』(東京ドーム・ナゴヤドーム・大阪ドーム・福岡ドーム)を開催(30万人動員)。
8月、10代の歌手としては史上初のシングル・アルバム総売上げ2,000万枚突破を達成した。
10月22日、TRFのダンサー・SAMとの結婚を発表、妊娠3ヶ月であることも明らかにした[注 6]。
11月、シングル「Dreaming I was dreaming」をリリース。
12月31日、『第39回日本レコード大賞』では「CAN YOU CELEBRATE?」で大賞を2年連続受賞[27]。
同日『第48回NHK紅白歌合戦』では「CAN YOU CELEBRATE?」で3回目の出場にして初の紅組トリを務める。
1998年
1998年、昨年の紅白出場の後は出産のため1年間の産休に入り、育児に専念。
この間にベストアルバム『181920』をリリース。
5月19日、長男を出産。
12月23日、復帰シングル「I HAVE NEVER SEEN」をリリース。
31日、『第49回NHK紅白歌合戦』では前年と同じく「CAN YOU CELEBRATE?」で紅組トリ前で1年ぶりに公の前に登場した。歌唱中、会場からの暖かい声援と拍手に感極まり涙を流した。歌唱中にNHKの瞬間最高視聴率が 64.9% を記録した。
1999年
1999年3月17日、復帰後のシングル「RESPECT the POWER OF LOVE」リリース。
同日、安室奈美恵実母殺害事件が起こり、世間や芸能界に激震が走る。事件のショックでしばらくは活動休止状態になると見られていたが、3月29日の『HEY!HEY!HEY!』の生放送で仕事を再開し、新曲「RESPECT the POWER OF LOVE」を歌いきった。
8月、千葉マリンスタジアムで行われた『Final Summer Dream Stage』に出演し、2年ぶりにステージ復帰。
9月、ダラス・オースティンのプロデュースによるシングル「SOMETHING 'BOUT THE KISS」をリリース。同曲で第32回全日本有線放送大賞吉田正賞を受賞。
11月、天皇即位10年記念式典に出席。
12月、『第50回NHK紅白歌合戦』では「RESPECT the POWER OF LOVE」をゴスペル・バージョンで歌唱した。
2000年
2000年1月、小室・ダラスの共同プロデュースによるアルバム『GENIUS 2000』をリリースし、アルバムを引っさげて復帰後初のライブツアー『NAMIE AMURO TOUR GENIUS 2000』を開催。
5月、ハワイで初の海外単独公演安室奈美恵 Live In Hawaii "Big Wave Honolulu"を開催した。
7月、九州・沖縄サミットのイメージソング「NEVER END」をリリース。サミット歓迎会では各国首脳の前で同曲を披露した。
同月、“那覇市民栄誉賞”を受賞。
12月、5枚目のアルバム『break the rules』をリリース。
31日、『第51回NHK紅白歌合戦』出場、「NEVER END」を歌唱した。
2001 - 2004年 : SUITE CHICとしての活動を開始
2001年、1月に発売したリカットシングル「think of me/no more tears」を最後に小室哲哉のプロデュースを離れる。3月から5月にかけて『break the rules』のライブツアー『namie amuro tour 2001 break the rules』を開催。7月には沖縄の野外ライブイベント『MUSIC FEST PEACE OF RYUKYU』に出演。8月には20枚目のシングル「Say the word」をリリース、シングル曲では自身初の作詞を担当した。10月から11月にかけてファンクラブ主催によるFC限定ライブハウスツアー『namie amuro tour "AmR" 01』を開催。12月には『第52回NHK紅白歌合戦』他、年末の音楽番組では「Say the word」をハウス・アレンジでパフォーマンスした。このバージョンは翌年発売のベスト・アルバム『LOVE ENHANCED ♥ single collection』に収録された。
2002年、2月にファンへ向けたメッセージ・バラード「I WILL」をリリース。5月には『MTV Video Music Awards Japan 2002』にパフォーミング・アーティストとして出演し、特別賞・Inspiration Award Japan[注 7]を受賞。7月10日にSAMと離婚。当初、親権はSAMに渡ったが、養育権は安室が持ち、2005年には親権も移りシングルマザーとなる。同月、『MUSIC FEST PEACE OF RYUKYU 2002』に出演し、9月にリリースした映画『命』の主題歌「Wishing On The Same Star」を初披露した。9月、『ASIA MUSIC FESTIVAL IN 上海』に出演。『第53回NHK紅白歌合戦』では「Wishing On The Same Star」を歌唱した。
また同年から今井了介・ZEEBRA・VERBALらとのスペシャルプロジェクト・"SUITE CHIC"(スイート・シーク)に参加し、完全限定生産のシングル「GOOD LIFE/Just Say So」をリリース。このことがきっかけで本格的にR&B・HIP HOP志向の曲をリリースするようになる。
2003年、2月にリリースされたSUITE CHICのアルバム『WHEN POP HITS THE FAN』が異例のセールスを記録し、『ミュージックステーションスペシャル』にSUITE CHICとして出演。AIとのコラボレーション曲「Uh Uh ,,,,,,」を歌唱した。5月には『MTV Video Music Awards Japan 2003』にプレゼンターとして出演し、SUITE CHICとしてBest Collaboration(最優秀コラボレーションビデオ賞)を受賞。ソロでは自身による選曲、アイデアなどセルフプロデュースを開始し、3枚のシングルをリリースした後、12月には6枚目のアルバム『STYLE』をリリース。11月からは翌年4月まで半年間に渡る長期開催となったライブツアー『namie amuro SO CRAZY tour featuring BEST singles 2003-2004』を開催(13万5,000人動員)。9年連続出場となる『第54回NHK紅白歌合戦』では「SO CRAZY」を歌唱した(翌年は出場を辞退)。
2004年、5月に台湾および韓国・ソウルで初のアジアツアーを成功させた(約3万6,000人動員)。以降リリースしているCDは日韓同時発売されている。同月、『MTV Video Music Awards Japan 2004』にパフォーミング・アーティストとして出演し、Best R&B Video(最優秀R&Bビデオ賞)、Best buzzAsia from Japan(最優秀buzzAsia賞)の2冠受賞。また、自身の憧れでもあるジャネット・ジャクソンがサプライズアーティストとして登場した際には、安室がプレゼンターとしてジャネットに特別賞を手渡し、ステージ上で2ショットが実現した。7月にはドラマ主題歌「ALL FOR YOU」をリリース。同月、再び来韓しソウルで開催された『MTV BuzzASIA Concert』に日本代表パフォーミング・アーティストとしてAIと出演、4曲披露した。8月にはFC限定ライブハウスツアー第2弾・namie amuro tour "fan space '04-"を開催。10月には初の2形態シングル「GIRL TALK/the SPEED STAR」をリリース。
2005 - 2011年 : ソロデビュー10周年
2005年、2月にタイ・バンコクで開催された『MTV Asia Aid』[注 8]に、日本代表パフォーミング・アーティストとして出演し、「GIRL TALK」をパフォーマンス。3月には日本最大級のファッションイベント・神戸コレクションにシークレットゲストとして登場し、4月にリリースした「WANT ME, WANT ME」を初披露。5月には『MTV Video Music Awards Japan 2005』にパフォーミング・アーティストとして出演し、Best R&B Video(最優秀R&Bビデオ賞)(受賞曲「GIRL TALK」)、Most Impressivle Performing Artist In Asia(アジア最優秀パフォーミング・アーティスト賞)の2冠受賞。史上初の4年連続受賞の快挙を達成した。7月にはピンク・パンサーとコラボレートしたオリジナルアルバム『Queen of Hip-Pop』をリリースし、アルバムを引っさげて9〜12月までライブツアー『Space of Hip-Pop -namie amuro tour 2005-』を開催。11月には自身初のクリスマスソング「White Light/Violet Sauce」をリリースした。
2006年、5月に自身初の邦楽カバー曲を収録した「CAN'T SLEEP, CAN'T EAT, I'M SICK/人魚」をリリース。8〜11月には、1997年以来の大規模ツアーとなったアリーナツアー『namie amuro BEST tour -Live Style 2006-』を開催(22万人動員)。
2007年、1月、ドラマ主題歌「Baby Don't Cry」をリリース。オリコン・シングルトップ10連続獲得年数記録を13年に更新し、女性アーティスト歴代1位の快挙を達成した。同曲の着うたではミリオン認定を記録(90万ダウンロード)。3月にはm-floのアルバム『COSMICOLOR』に、m-flo loves 安室奈美恵として「Luvotomy」で参加。6月にはアルバム『PLAY』をリリースし、7年ぶりに首位を獲得した。アルバムを引っさげて、8月から翌年2月まで自身最多公演数となるライブツアーnamie amuro PLAY tour 2007-2008を開催(14万5,000人動員)。同8月には『MTV STUDENT AWARDS 2007』にパフォーミング・アーティストとして出演し、"STUDENT VOICE" RESPECT AWARD[注 9]を受賞。9月には30歳の誕生日を迎えた。
2008年、『プレミアム ヴィダルサスーン』のイメージモデルを務め、パトリシア・フィールド(スタイリスト)、オーランド・ピタ(ヘアスタイリスト)と世界的クリエイター陣とのコラボレーションが実現し、3月にキャンペーンソング「60s 70s 80s」をリリース。登場2週目でシングルでは9年ぶり10作目の首位を獲得した。同月、『SPACE SHOWER Music Video Awards 08』のBEST FEMALE VIDEO(女性ソロ最優秀ビデオ)を『PLAY』のリード曲「Hide & Seek」で受賞。4月には台湾で4年ぶりとなるアジア公演を開催した。5月にはDOUBLEのアルバム『THE BEST COLLABORATIONS』に「BLACK DIAMOND」で参加、DOUBLE(TAKAKO)からのオファーによりコラボレーションが実現した。同月、『MTV Video Music Awards Japan 2008』にゲスト・セレブリティとして出演し、3年ぶりにBest R&B Videoを「Hide & Seek」で受賞。夏にはエイベックスの野外イベント『a-nation』に初出演し、自身の提案からトップバッターを担当した(全公演出演)。
7月には新曲2曲を収録したベストアルバム『BEST FICTION』をリリース。音楽業界としては異例の10代・20代・30代をまたいで史上初の3年代連続ミリオンセラーを達成し、女性ソロアーティストとして28年半ぶりに6週連続首位を獲得した。アルバムを引っさげて10月から自身最大規模かつ女性ソロアーティスト史上最多動員数を記録したアリーナツアー『namie amuro BEST FICTION tour 2008-2009』を開催(50万人動員)。
2009年、3月に『SPACE SHOWER Music Video Awards 09』でMVA09 BEST ARTIST[注 10]、BEST FEMALE VIDEOの2冠受賞。さらに5月に『MTV Video Music Awards Japan 2009』で4年ぶりに2冠受賞。6月には台湾公演、7月には上海で自身初となる中国公演を開催し、海外公演を初映像化したライブDVD『namie amuro BEST FICTION TOUR 2008-2009』が初動売上記録で女性アーティスト歴代1位となり9年ぶりに記録を更新、Blu-ray盤との2部門制覇はアーティスト史上初の記録となった。12月にはアルバム『PAST < FUTURE』をリリース。10代・20代・30代の各年代でのオリジナルアルバム首位獲得はソロアーティスト初の記録となり、アジア5ヶ国・地域での首位獲得は日本人女性アーティスト史上初の快挙となった。
2010年、アルバムを引っさげて、4月から12月までライブツアー『namie amuro PAST<FUTURE tour 2010』を開催。5月には日本人アーティストとしては1994年のCHAGE and ASKA以来2組目でアジアの女性アーティストとしては初となる『World Music Awards』の出演という快挙を成し遂げた[注 11]。同月『MTV Video Music Awards Japan 2010』のBest Female Videoを『PAST < FUTURE』のリード曲「FAST CAR」で受賞。
2011年、4月に自身がゲスト参加した楽曲集めたコラボレーション・アルバム『Checkmate!』をリリース。アルバムを引っさげて7月から12月までアリーナツアー『namie amuro LIVE STYLE 2011』を開催。
2012 - 2016年 : デビュー20周年、Dimension Pointレーベルの設立
2012年6月、オリジナルアルバム『Uncontrolled』をリリース。竹内まりやが2008年に記録した『Expressions』以来3年9ヶ月ぶりに女性アーティストによるアルバム3週連続首位を獲得し[28]、日本、台湾、香港、韓国、シンガポールの計5ヶ国で前作『PAST < FUTURE』に引き続き1位を獲得。また香港では2週連続で1位を獲得している[29]。
9月16日、自身のデビュー日に併せて、地元・沖縄で一夜限りの20周年アニバーサリーイベント『namie amuro 20th ANNIVERSARY LIVE in OKINAWA』を開催する予定だったが、台風第16号の影響により中止となった。ゲストとして、川畑要、土屋アンナ、AI、Mummy-D、ZEEBRA、VERBALに加え、シークレットゲストとしてDOUBLEと小室哲哉が出演する予定であった(後に、このライブは5年後の2017年9月にデビュー25周年記念としてリベンジを果たしている)[注 12]。
12月、15年振りとなる自身初の全国5大ドームツアー『namie amuro 5大ドーム TOUR 2012 ~20th Anniversary Best~』を開催。5会場8公演で約34万人動員となり、動員数・公演数ともに女性ソロアーティスト歴代トップとなる[30]。
2013年7月、オリジナルアルバム『FEEL』をリリース。オリコン初登場1位を記録。
このアルバムより、レーベルをavex traxからDimension Pointへ移籍。Dimension Point第1号アーティストとなる。
8月から12月にかけて、24会場44公演24万人動員の全国ツアー『namie amuro FEEL tour 2013』を開催。
2014年6月、自身初となるバラード・ベストアルバム『Ballada』をリリース。
8月から12月にかけて、13会場38公演31万人動員の全国アリーナツアー『namie amuro LIVE STYLE 2014』を開催。
2015年1月、デビュー以来所属していたライジングプロダクションを退社し、エイベックス内のプライベートレーベルDimension Pointに移籍[31]。
6月に全曲未発表のオリジナルアルバム『_genic』を発売。全曲新曲&ノンタイアップという異例の作品であるにも関わらずオリコン初登場1位を記録した。また個人事務所 stella88 でマネジメントを開始したことをエイベックスが発表した。
9月から翌2016年2月まで、15会場44公演の全国アリーナツアー『namie amuro LIVEGENIC 2015-2016』を開催。
2016年5月、関西テレビ・フジテレビ系ドラマ『僕のヤバイ妻』の主題歌に「Mint」が起用された。
7月にNHKリオ・デ・ジャネイロオリンピック放送テーマソング「Hero」リリース。
8月から全国ホールツアー『namie amuro LIVE STYLE 2016-2017』を開催。
当初は3月いっぱいまでの全88公演での開催となっていたが、残り44公演を残した中での年明け2017年1月に、5月までの追加13公演が発表され、計33会場1,100公演という前代未聞の公演数となった。
2017年 - 2018年:デビュー25周年、そして電撃引退
2017年
2017年5月、日本テレビドラマ「母になる」の主題歌に起用された「Just You and I」を発売し、23年連続シングルTOP10入りを記録。
9月16日と翌17日、地元である沖縄県・宜野湾海浜公園野外特設会場にてデビュー25周年記念野外凱旋スペシャルライブ『namie amuro 25th ANNIVERSARY LIVE in OKINAWA』を開催[注 13][3]。およそ5万2千人の動員数を目の前に、5年越しでのリベンジを大成功に納めた[32][33]。それに伴い25周年記念特設サイト[注 14]がオープンされた。
収録されたライブコンサートが10月22日にWOWOWで放送された[34]。
9月20日、翌2018年9月16日に引退することを発表[1][4][5]。会見は行われず、自身の公式サイトで公表された。
10月1日から1年限定で、デビュー25周年を記念してスピンオフ・ドキュメンタリー映像「Documentary of Namie Amuro “Finally”」が動画配信サービスHuluにて毎月1話ずつ独占配信されている。なお、同映像のシリーズは全12話まで放送される予定。
11月8日、デビュー25周年記念及び、引退宣言発表を受けて、1992年のデビュー曲「ミスターU.S.A.」から最新曲「Just You and I」までのシングルから厳選した45曲と未発表曲6曲が収録されたキャリア初となるオールタイム・ベストアルバム『Finally』をリリース。
発売日直前までに100万枚ものプレオーダーが殺到した事が話題となった。
発売初週で111.3万枚を売り上げえてミリオンを記録、オリコン週間アルバムランキングで初登場1位を獲得。また、翌週でも143.5万枚も売り上げ、それまでの年間部門1位を保っていたSMAPのアルバム『SMAP 25 YEARS』の記録(117.2万枚)を大きく上回った。
因みに、アルバム作品が発売1週目でミリオンを突破したのは、宇多田ヒカルの「Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1」が2004年4月12日付の週で達成して以来13年7ヶ月ぶり。
自身が持つ歴代アーティストで唯一10代、20代、30代でミリオンを達成していた”3年代の連続ミリオンセラー”の自己記録をこのアルバムで”40代”を加えて更新し、前代未聞となる4年代連続ミリオンセラーの快挙を成し遂げた[35]。
期間内に177.8万枚を売り上げ、第50回オリコン年間ランキング2017アルバム部門1位を獲得。年間アルバム1位獲得は自身初。発売から5週での年間アルバム1位は、1997年のGLAY、2013年と2016年に嵐が記録した7週を抜き、史上最速となった。ソロアーティストによる年間アルバム1位獲得は、2006年の平井堅「Ken Hirai 10th Anniversary Complete Single Collection '95-'05 歌バカ」以来11年ぶり、女性ソロに限ると、2004年の宇多田ヒカル「Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1」以来13年ぶりとなった。また、ソロアーティストによるアルバム年間売上ミリオン突破は、2008年に自身が「BEST FICTION」で144.7万枚を記録して以来9年ぶりとなった。
発売から2ヶ月でダブルミリオン(売上枚数200万枚)を突破した[36]。アルバム作品の売上枚数が200万枚を突破したのは、2012年8月13日付の週でザ・ビートルズのベスト・アルバム「ザ・ビートルズ1」が記録して以来5年5ヶ月ぶり。ソロアーティストでは、平井堅「Ken Hirai 10th Anniversary Complete Single Collection '95-'05 歌バカ」(2006年4月17日付)以来11年9ヶ月ぶりで、女性ソロでは宇多田ヒカル「Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1」(2004年4月26日付)以来13年9ヶ月ぶりとなった。自身のアルバムでは「SWEET 19 BLUES」(1996年8月12日付)に次いで21年5ヶ月ぶり通算2作目のダブルミリオン突破となった。
第32回日本ゴールドディスク大賞「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」「アルバム・オブ・ザ・イヤー」「ベスト5アルバム」(邦楽)を受賞。
第10回CDショップ大賞2018特別賞受賞。
アルバムに収録されている新曲「How do you feel now?」は実に16年振りに小室哲哉がプロデュースされている事が発売日当日に明かし、大きな反響を呼んだ[37]。
11月5日、日本テレビ・Huluにてデビュー25周年野外ライブの舞台裏側に密着したドキュメンタリーと本人のインタビューを加えたスペシャル番組『安室奈美恵 平成の歌姫』が、23日(勤労感謝の日)にはNHK系列にて『安室奈美恵 告白』と題した特集番組が地上波にて相次いで放送された。同番組には、過去にNHKに出演したVTRに加えて、独占インタビューなどが組まれ、引退理由も語られた[38]。どちらも放送終了後に大きな反響を呼び話題となった。NHKでは放送終了後にコメントや問い合わせが殺到した為、急遽、翌2018年1月8日(成人の日)に再放送されることが決定した。
12月19日、同年大晦日に放送される第68回NHK紅白歌合戦への特別歌手枠としての出演が発表された[39][40][41]。なお、紅白に出場するのは2003年の第54回以来、およそ14年振りとなる。歌唱曲は、2016年に開催されたリオオリンピックで同局のテーマソングを担当した「Hero」。なお、同曲を地上波の音楽番組で披露するのが、これが初となった。
久々の生出演という効果もあり、安室は第二部(対白は桑田佳祐[42])で紅組トリを務めた石川さゆりの直前である午後11:10分台から約10分の間に出演を果たした。歌唱終了後に深々くお礼をし、歓喜あまりに途中号泣をしてしまう姿も見られた。また、同曲の歌唱シーンで番組の瞬間最高視聴率48.4%を記録し、大きな反響を呼んだ[43]。
引退前
2018年
2月より、国内外最後となるラストツアー『namie amuro Final Tour 2018 〜Finally〜』が開催された[44][45]。
自身3度目、6年振りとなる全国5大ドームツアーは17公演で約75万人を動員し、ソロアーティストの単独ツアーとしては最多動員記録となった。同ツアーには510万件を超える応募が殺到した。
6月3日である最終日にはチケットを手にできなかったファンなどがドーム周辺、2日間だけでおよそ、6千人のファンが会場全体に集結。アムラームード全開となり、大きな話題を呼んだ[46]。
このツアーを皮切りに中国・香港・台湾の各3カ国の計6公演で開催されるアジアツアー『namie amuro Final Tour 2018 〜Finally〜 in Asia』も即行[47]。アジアツアーも当初は5公演となっていたが、後に香港公演が新たに追加で発表され、6公演となった[48]。
ライブのセットリストはファンによるリクエスト投票(シングル・アルバム全楽曲)によって実施[49]。ツアー開催に先駆け、ファンによるリクエスト投票[注 15]がオープンされた(現在は締め切り終了)。
ツアー開催直前には、2015年3月末をもって引退した元ジャパネットたかたの社長であり、“通販番組のカリスマ” でもあった高田明が司会に迎えて、1日限りの通販番組としてツアーグッズを紹介する動画がYouTubeにて公開され、話題となった[50]。
2018年3月、1997年の20年間で23本のCMに出演していた化粧品会社コーセーとのスペシャル・コラボ「NAMIE AMURO × KOSE ALL TIME BEST」と題したサイトを期間限定オープン。これまで務めた歴代CM動画・ポスターなどが一挙公開された[51]。
4月19日、企画第二弾として、初出演の1997年から2014年までに出演した当時のCMと新たに撮り下ろされたCMを合成した新CM「NAMIE AMURO × KOSE ALL TIME BEST Project みんな、あなたになりたかった」編が翌日より放映された[52]。
6月20日、企画最終章となる第四弾は「I am I」編として、1997年から2000年までイメージキャラクターを務めていた「VISSE」との限定コラボ商品となる「ヴィセ リシェ アイカラーパレットNA」の発売に合わせたCM。なお、商品のカラーは本人がセレクトしている[53]。
3月1日、SPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2018にて、最も活躍した女性アーティストに授与される「BEST FEMALE ARTIST」を受賞。
4月10日、ファッションブランドメーカーである企業H&Mとのスペシャル・コラボレーション「Namie Amuro × H&M」を実施[54]。
4月25日より全国の店舗およびオンラインストアにてコレクションアイテムが販売される展開となっている。同日に販売された読売新聞朝刊には、H&M代表取締役社長が宛てて綴った手紙が掲載された。
5月14日、日本トランスオーシャン航空とのタイアップで特別デザイン機"AMURO JET"を就航[55]。
5月24日、那覇市にて沖縄県民栄誉賞授与がなされた[56]。
6月25日、自身としては初となる体感型展覧会「Final Space」を東京・大阪・福岡・沖縄の4都市にて開催[57]。
4会場ごと開催日がそれぞれ異なり、東京は7月24日、大阪は7月14日、福岡は8月12日、沖縄は8月2日からとなっている。
開催期間は引退日である9月16日までとなっている。
7月14日、日本テレビ系列(関東ローカルのみ)毎週土曜夜10:54分よりスタートのミニ番組「namie amuro Final Space」が放送[58]。
内容は、動画配信サイトHuluにて公開されている「Documentary of Namie Amuro “Finally”」でO.Aされたものを中心に、10個のキーワードをもとに “安室奈美恵が大切にしてきたコト” を紐解く6分間の番組。ファイナルツアーの密着映像や、上述の体感型展覧会の情報が放映される。
提供元はそれぞれ1社で異なり、初回放送はコーセーとのコラボCM、2回目からはセブン&アイホールディングスによるコラボCMがそれぞれ放映された。
7月29日、日本テレビ系列毎週日曜夜7:58分より放送されている人気バラエティ番組『世界の果てまでイッテQ』へサプライズとして初出演[59]。
民放音楽番組以外となる娯楽番組の出演は、フジテレビ系列の番組『ワンナイR&R』以来となる。日本テレビ系列としては、司会者である今田耕司とプレゼンをしていた『アムロ今田きっとNo.1』の1998年以来、20年ぶりとなる。
主な内容は、兼ねてより安室の絶大なファンとして公認しているイモトアヤコが番組内で熱心に語っていたことから今回のオファー企画へのきっかけに繋がった。安室は今回、アジアツアーのため台湾公演を訪れており、偶然にもイモトも旅先のロケ地が台湾であった為、同空港のロビーでイモトは安室と遭遇。イモトは台湾の伝統漁をリポート中に、安室がサプライズとして出演するという内容になっている[60]。
8月9日、前日の8月8日に逝去した翁長雄志沖縄県知事の訃報を受け、哀悼の意を表すると共に「沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております」とのコメントを公式サイトで発表した[61]。
8月22日、セブンイレブン主催のプレミアム・ライブ&イベント『WE ♥ NAMIE HANABI SHOW 前夜祭 ~I ♥ OKINAWA/I ♥ MUSIC~ supported by セブン-イレブン』(前夜祭の9月15日、引退日である9月16日)より、15日・沖縄コンベンションセンター展示棟にて開催されるイベントライブ(前夜祭)への出演が決定した。この他、沖縄と縁かあるアーティストとして、BEGIN、平井堅、MONGOL800など門出に祝福する形で出演。さら2008年に共演したDOUBLEや2011年のコラボアルバムで客演をした山下智久、2015年にコラボした台湾の歌手ジョリン・ツァイもこのライブの為にサプライズ・ゲストとして駆けつけた。安室が主催フェス・イベントへ出演するのはa-nation以来、およそ10年ぶりでもあり、引退前、これが最後のライブパフォーマンス・ステージとなった[62]。
引退後
9月18日、日本テレビ系列で特別番組『これで見納め!安室奈美恵引退スペシャル!!〜最後の1年と最後の1日に独占密着〜』を、夜9時より放送[63]。
番組では昨年11月にリリースされたアルバム「Finally」のレコーディングやミュージックビデオの撮影の様子、今年の2月から6月にかけて行われたドームツアー「namie amuro Final Tour 2018 ~Finally~」の模様、引退前日の9月15日に沖縄・沖縄コンベンションセンターで開催されたライブイベント「WE ♥ NAMIE HANABI SHOW 前夜祭 ~I ♥ OKINAWA/I ♥ MUSIC~ supported by セブン-イレブン」に密着した映像などを放送予定。さらに彼女の25年の軌跡を、日本テレビに残されている映像で振り返り、2時間半にも及ぶスペシャル特番となる。
9月30日、引退に伴い、この日をもって「公式サイト」「公式ファンクラブ」「公式オンラインストア」「公式Facebookページ」の各サービスを終了した[64]。従って、本人の活動に関する公式の情報源も失われた。
2019年
6月16日、これまでに発表されたavex在籍時代の全楽曲を一斉に、Apple Musicにおいてストリーミング独占配信をされるほか、25周年記念沖縄ライブと引退前のラストツアーの音源、これまで未配信となっていたベストアルバム『Finally』も同時にダウンロード販売を開始した[65]。
配信開始から1週間で、日本人邦楽アーティストのアルバムで初の快挙を記録。このほか、日本・アメリカ・中国を含む33ヶ国で最も再生数を記録した[66]。
7月11日、引退した9月16日に再び「WE ♥ NAMIE HANABI SHOW supported by セブン-イレブン」が、昨年同様の宜野湾トロピカルビーチにおいて開催される事が発表された[67]。
当日は花火のほか、沖縄コンベンションセンター展示棟でライブ映像「WE ♥ NAMIE 特別応援上映」と題した応援上映イベントも開催される。内容は、Huluにて期間限定公開された「Documentary of Namie Amuro “Finally”」と、ラストツアー「namie amuro Final Tour 2018 〜Finally〜」の東京最終日、引退日前のラストステージとなった「「 WE ♥ NAMIE HANABI SHOW 前夜祭 ~I ♥ OKINAWA / I ♥ MUSIC~ supported by セブン-イレブン」を特別編集した映像が3本立てで上映される。
3本立てのうち、ラストツアーは全国の映画館で「WE LOVE NAMIE サンクス・ビューイング 〜2018.6.3東京ドーム〜」と題して、一斉に上映される予定。
8月28日、日本記念日協会より9月16日を「安室奈美恵の日」として申請をする方針でいた[68][69]が、9月10日に認定が取り消された[70][71]。
9月16日、これまでに発表されたavex在籍時代の全楽曲(シングル・アルバム)のミュージック・ビデオがApple Musicにおいて一挙、配信された[72]。
エピソード
1997年、2001年、右手首にタトゥーを入れ、2002年、左腕上腕部にタトゥーを入れていた。左腕には以下の英文と、その下に大きく息子の名前HARUTOと刻まれていた[73]。また、右腕にもクローバーと、バーコードと自身の生年月日、後に「Love Peace World」と刻まれていたが、20周年以降は両腕のタトゥーが消えている。

JUN.30 in 1950
my mother's love live with me
Eternally in my heart
R.I.P
MAR.17 in 1999

1950年6月30日(母親の生年月日)
母の愛は私と一緒に生きている
私の心の中で永遠に
rest in peace(安らかに眠れ)
1999年3月17日(母親が亡くなった日)

慈善活動
アメリカ同時多発テロ事件の義援金として1200万円を寄付[74]。
2004年のスマトラ島沖地震の義援金として1000万円を寄付[74]。
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の義援金として日本赤十字社を通じて5000万円を寄付[74]。
作品
「安室奈美恵の作品」を参照
出演
映画
That's カンニング! 史上最大の作戦?(1996年・東映) - 森下由美 役
学校II(1996年・松竹) - 本人 役
ドラマ
いちご白書(1993年・テレビ朝日、月曜ドラマ・イン) - 遠藤玲子 役
時をかける少女(1994年・フジテレビ、ボクたちのドラマシリーズ) - 芳山美代子 役
私、味方です(1995年・TBS)(第3話「美女の味方です」) - 吉岡妙子 役
STATION(1995年・日本テレビ)(第3話「女子高生が泣いた!痴漢の秘密」) - 女子高生 役
湘南リバプール学院(1995年・フジテレビ) - 太田美香 役
私が恋愛できない理由(2011年・フジテレビ)(第9話「行かないで!!私達のクライマックスへ!!」) - 本人 役
ドキュメンタリー
安室奈美恵「告白」(2017年11月23日、NHK総合)
namie amuro Final Space(2018年7月15日 - 9月30日・BS日テレ)※ミニ番組
namie amuro Final Space(2018年8月4日・BS日テレ)※特別番組
NHKスペシャル 平成史スクープドキュメント(2019年1月20日、NHK総合)
バラエティ
ポップジャム(1993 - 1994年・NHK)
ポンキッキーズ(1994 - 1997年・フジテレビ)
ニョキニョキ植物王国(1994 - 1995年・テレビ東京)
夜もヒッパレ一生けんめい(1994 - 1995年・日本テレビ)
THE夜もヒッパレ(1995 - 1997年・日本テレビ)
GROOVY(1995年・日本テレビ)
COUNT DOWN GROOVE(1995年・日本テレビ)
アムロ今田きっとNo.1(1996 - 1997年・日本テレビ)

敬老の日とは

敬老の日(けいろうのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は9月の第3月曜日。

2002年(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2003年(平成15年)から現行の規定となっている
趣旨
敬老の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。

同様の趣旨の記念日として、老人福祉法によって定められた、老人の日(9月15日)、老人週間(9月15日より1週間)がある。

歴史
敬老の日の始まり
兵庫県多可郡野間谷村(後に八千代町を経て現在の多可町八千代区)で、1947年(昭和22年)9月15日に村主催の「敬老会」を開催したのが「敬老の日」の始まりであるとされる[1]。これは、野間谷村の村長であった門脇政夫(1911年 - 2010年)が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので[1]、9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い[2][3]9月中旬ということで決められた[3][2]。昭和22年当時は戦後の混乱期に当たり、子供を戦場へ送った親たちも多く、精神的に疲労の極にあった。門脇は、そうした親らに報いるべく「養老の滝」の伝説にちなみ、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を開催した。これが全国に広がりを見せ、国民の祝日「敬老の日」制定につながった。現在、八千代コミュニティプラザの玄関脇には「敬老の日提唱の地」と刻まれた高さ約2mの石碑が建っている。 1948年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」において、こどもの日、成人の日は定められたものの、老人のための祝日は定められなかった。門脇は1948年9月15日に開催された第2回「敬老会」において、9月15日を「としよりの日」として村独自の祝日とすることを提唱した[2][3]。門脇は県内市町村にも祝日制定を働きかけ[4][3]、その趣旨への賛同が広がった[2]。1950年(昭和25年)からは兵庫県が「としよりの日」を制定[2]。1951年(昭和26年)には中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が9月15日を「としよりの日」と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間とした[5]。

1963年(昭和38年)に制定された老人福祉法では、9月15日が老人の日、9月15日から21日までが老人週間として定められ[6]、翌1964年(昭和39年)から実施された。さらに1966年(昭和41年)に国民の祝日に関する法律が改正されて国民の祝日「敬老の日」に制定されるとともに、老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められた[2][6][7]。

その後2013年(平成25年)、多可町では「敬老の日」発祥の町として、敬老の精神を未来に向けて受け継いでいく目的で、公募で作成した敬老のうた「きっとありがとう」[8]を制作し、町の各所で流されているほか、この歌を使って介護予防の目的で体操を作って公開した[9]。

9月15日という日付について
敬老の日の起源を野間谷村の敬老会に求めるならば、9月15日という日取りは上述の通り野間谷村の農事暦と気候に由来するものになる。門脇政夫の事績を伝える多可町広報の記事によれば、9月という開催時期には、農閑期であることや気候に加え、養老の滝伝説も参考にしたという[2](元正天皇が霊亀3年(717年)9月に滝を訪れて養老の滝と命名、同年に養老と改元し、全国の高齢者に賜品を下した[10]。ただし『続日本紀』にはその日付は9月20日とあり、15日ではない。これは旧暦なので、ユリウス暦に換算すると10月28日、第4木曜日である)。

このほか、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日であるとして、敬老の日をこれに由緒づける主張もある[11]。『四天王寺縁起』によれば、聖徳太子が四天王寺建立(593年)と同時に悲田院を含む「四箇院」(現代でいう社会福祉施設)を設立したとあるが[12]、「9月15日」という日付には根拠がない。四天王寺悲田院の伝統を継ぐとする四天王寺福祉事業団も、「敬老の日」由来の諸説のひとつとして挙げるにとどまる[11]。なお、四箇院の創設者を聖徳太子とする伝承も、後年の太子信仰の中で仮託されたものと考えられている[13]

9月第3月曜日への移動
2001年(平成13年)の祝日法改正(いわゆるハッピーマンデー制度の実施)によって、2003年(平成15年)からは9月第3月曜日となった。だが、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、敬老の日が9月第3月曜日へ変更されて9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が最初である。

敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、当時存命であった提唱者門脇政夫が日付の変更について遺憾の意を表明したほか、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明した[14][15]。2001年(平成13年)に老人福祉法第5条を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間とした。

敬老の日と郵趣
中央社会福祉協議会が9月15日をとしよりの日と定めた1951年(昭和26年)には、特殊通信日附印が使用されている[16][17]。また、1958年(昭和33年)には郵政省(当時)から、「としよりの日」の特殊葉書が発行されている[18]。復帰前の沖縄でも「としよりの日」の名称のままでおなじ9月15日に祝日が制定され、1968年(昭和43年)、記念切手が発行された。

各国の敬老の日
東アジアで伝統的に祝われてきた五節句のひとつである9月9日(旧暦/陽暦)の重陽には、長寿を願って菊の花を浮かべたお酒を飲むなどの慣習があり、主旨が類似している[19]。

老人に敬意を表する祝日・記念日は各国に存在する。

祝日となっている国
パラオでは5月5日が Senior Citizens Day とされ、祝日となっている。

その他の記念日
アメリカ合衆国では、9月の第1月曜日の次の日曜日がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされている[19]。この記念日は1978年に始まった[19]。カナダ[19]ほか各国にも同趣旨の記念日がある(英語版 National Grandparents Day 参照)。

国際連合は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「国際高齢者デー」とすることを採択し、1991年から国際デーとして運用されている[19]。

中華人民共和国では、1989年に施行された中華人民共和国老年人権益保障法改正において、重陽にちなみ旧暦9月9日を「高齢者の日」(中国語: 老年节)と定めた[20]。

大韓民国では、老人福祉法(朝鮮語: 노인복지법、原文)において、10月2日が「老人の日」(노인의 날)として記念日に、10月が「敬老の月」(경로의 달)として記念月間に指定されている。

山口真帆

山口真帆(日语:山口 真帆/やまぐち まほ Yamaguchi Maho */?,1995年9月17日-[2])是日本女藝人,曾為女子偶像组合NGT48成员。暱稱「Mahohon」(まほほん)[2][注 1]。青森縣出身[2]。所屬經紀公司為研音
略历
2015年

7月25日,通过NGT48第1期生甄选最终审查[4]。8月21日,在新潟市歷史博物館前廣場举行的NGT48初次公開披露活动中,与其他21名1期生(包括選秀2期生)一同亮相[5]。
2016年

1月10日,升格为正式成员。所属新结成的Team NIII[6]。
2017年

在6月17日开票的『AKB48第49张单曲选拔总选举』中获得20,818票,排名53位(Future girls),首次入选[7]。
2018年

4月13日,在新潟朱鷺展覽館举行的『NGT48单独演唱会 〜朱鹭来了!从新潟到全国!〜』发表的组阁中,调动至新成立的Team G[8]。
在6月16日开票的『AKB48第53张单曲世界选拔总选举』中获得20,654票,排名70位(Upcoming girls)[9]。
7月1日,在NGT48劇場舉行的Team G「「引体后翻」」初日公演上,发表就任Team G副队长[10]。
2019年

1月8日至9日,通过個人SHOWROOM及Twitter帳戶,揭发了前年12月在住所遭遇暴行被害一事(详情后述)。
4月21日,在NGT48劇場举行的Team G「引体后翻」千秋樂公演上,宣布将从NGT48毕业[11]。
5月18日,在NGT48劇場與同日將從NGT48畢業的菅原里子、長谷川玲奈舉行畢業公演《「無論幾次的太陽」~菅原里子、長谷川玲奈、山口真帆 畢業公演~》(「太陽は何度でも」公演〜菅原りこ・長谷川玲奈・山口真帆 卒業公演〜)[12][13]。
5月19日,结束作为NGT48一員的活动[注 2]。
5月25日,移籍艺能事务所研音[3][15]。同时,删除了在個人社交媒体上所有的投稿[16]。
8月1日,开设官方网站及粉丝俱乐部[1]。
9月17日,将发行首本写真集[1]。
人物
出生于青森县,因经历了东日本大震灾,参加过多个志愿者团体,曾以东北为中心开展过志愿者活动[17]。在这之中得知AKB48集團在受灾地定期举行受灾地复兴支援活动,受到感动,开始以成为偶像为目标[17]。通过通信公司的每月募捐计划进行着捐款[17]。
对社会贡献活动感兴趣。虽然因费用方面的问题放弃了,但也查过如海外志愿者留学之类的项目[17]。
喜欢的食物是芒果、牛舌、晴王麝香葡萄[2]。
特技是「棉花糖吃的很快」和「把英文读的像那么一回事儿」[2]。
北原里英毕业后,除去兼任的柏木由紀,成为NGT48最年长成员。曾说过「年轻成员真可爱的不行」,「想成为能适度摆出姐姐姿态的人」[18]。
将来的梦想是成为模特。不会变胖的体质,还有着NGT48的服装不加长都穿不了的,相对于身高来说腿和手臂较长的体形。对作为偶像有着这样的体形感到自卑,认为「我觉得模特这个工作,能够利用到自己自卑的部分。」[18]。
暴行被害
主条目:NGT48 § 暴行被害骚动
2018年12月8日,在新潟市内的住宅公寓的房门前,山口遭到包括被抓住脸和堵住嘴等的暴行被害。实施暴行的犯人男性2名被新潟县警逮捕,但在同月月底被做出不起诉决定,释放。事件虽然在当时没有媒体报道,也没有被公开,但在从2019年1月8日晚到第二日期间,山口本人通过SHOWROOM及Twitter告发使得事件浮出水面。告发内容是,有其他多名NGT48成员与事件相关联,和NGT48的运营工作人员没有进行合适的处理。1月9日,NHK等主流媒体首次报道此事,令社会获知[19]。

在1月10日举行的NGT48 3周年纪念公演上,山口本人站在舞台上,对造成骚动一事谢罪。作为负责人的时任剧场经理今村悦郎始终没有出面,反让受害者谢罪,NGT48运营的态度受到了来自世界各国媒体的批判[20]。

山口没有出演1月18日、19日举行的演唱会“AKB48 Group Request Hour Setlist Best 100 2019”[21]。在这之后持续着未在公共场合现身,除了Twitter点赞以外没有任何音信的状况。3月22日,在AKS举行的关于第三者委员会出具的调查报告的记者会中,她全程共发出了5条推文,实时反驳AKS的主张。出现了出席记者会的记者看着山口的推文向AKS方确认这样前所未闻的展开[22]。

4月21日,时隔101天出演NGT48剧场公演,在安可之后,明言「(被事务所的社长)说成是攻击公司的加害者」[23],「现在的我能为NGT48做的,就只有毕业了」发表了毕业

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