株式会社ジャニーズ事務所(ジャニーズじむしょ、Johnny & Associates, Inc.)は、日本の芸能プロダクション。
アメリカ由来の芸能の伝道
創設者のジャニー喜多川は、その前半生を第二次世界大戦戦時中の一時期を除いてアメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルスで過ごし、その間アメリカ西海岸のエンターテインメントの世界に浴びるように触れる。また、両親の母国の敗戦により日本がまだ連合国軍の占領下にあった1950年頃から日本の芸能人が箔附けのために渡米するようになり、父の諦道が日本仏教の高野山真言宗米国別院の主監をつとめていた都合上、それらの寺院を公演場所として貸与しており、喜多川はここでもエンターテインメント業に触れる一方で、美空ひばりを筆頭に錚々たる芸能人と面識を持った[1]。
サンフランシスコ講和条約の発効で日本が主権回復した1952年、喜多川は来日してアメリカ大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎の近所の少年たちを結集させてチームを作り野球を教授していた。この野球少年たちの一人であったあおい輝彦(青井輝彦)が「ジャニーさんが監督なんだから、チームの名前もジャニーズでいいんじゃない?」と言ったことがきっかけでこの野球チームを『ジャニーズ』と命名したという[2]。
ある日、雨天により通常行う野球の練習を休み、映画館で『ウェストサイドストーリー』を鑑賞する。これに一同感動し、以降野球のトレーニングそっちのけでダンスのレッスンを始めた。この時の野球少年から選抜されたのが、事務所最初のタレントグループである(初代)ジャニーズであった。喜多川は単なるタレント育成ではなく、ミュージカル俳優のような歌唱してダンスもできるマルチタレントの育成を目指した。
1962年、渡辺プロダクションの系列会社としてジャニーズ事務所が創業される。初代ジャニーズは生放送の舞台ショーであった『夢であいましょう』や、『若さとリズム』(いずれもNHK総合テレビジョン)などに出演する[3]。
次いで、1968年にデビューしたフォーリーブスは当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り、「楽器を持たないGS」と通称される。1970年代に入りGSが下火に入ると、変わって台頭したソウルミュージックの路線に切り替える[4]。
アイドル的路線の確立
1970年代前半、GSのグループやメンバーはそれぞれアーティスト性を強めていた(ニュー・ロック)。また、アメリカの音楽文化の中では政治的な自我を前面に強調したフォークソングが新たに誕生し、日本においても吉田拓郎、井上陽水、中島みゆきらが人気を博していた。しかしジャニーズはあくまで非日常な舞台を演出する方針を堅持した。ジャクソン5を模した明るいソウルミュージックに転向し、軽快でポップな舞台を「演じる」路線をとったのである[5]。
1972年、郷ひろみのデビュー時にはその中性的なルックスを前面に押し出し、またGSで特にアイドル性が高かったオックスとタッグを組んでいた筒美京平をプロデューサーに迎えた。郷はその後、1970年代半ばから登場したディスコもいち早く受容したが、1975年に退所する。次いで1977年にデビューした川崎麻世、1980年にデビューした田原俊彦もこの流れを継いだ[6]。舞台演技として一番経験を積んだのは、少年隊である。少年隊はデビュー前からアメリカに進出するなどそのパフォーマンスを高く評価される。1985年にデビューすると、翌年から2008年まで舞台『PLAYZONE』で主役を張った[7]。1987年デビューの光GENJIもまたミュージカル志向であるが、トレードマークのローラースケートはイギリスのミュージカル『スターライトエクスプレス』に着想を得たものである[8]。
お茶の間のタレントの誕生
一方で、1970年代半ばからテレビが普及するにつれて、「日常で各家庭のお茶の間に居ながらにしてわずかな非日常的空間を楽しむ」、というスタイルが誕生する。この潮流の主軸をなしたのが、『スター誕生!』に関わった阿久悠であった。ジャニーズでこの新たな潮流に最初に合致したのが、近藤真彦(1980年デビュー)である。近藤のやんちゃなキャラクターが1950年代のオールディーズやストリートファッションなどの対抗文化の雰囲気を醸し出していると評され、ディスコ風の曲と並行してロック風の曲も発表された[9]。
1980年代に入ると男女両方のアイドルの大衆化はさらに進み、歌やダンスなどの「実力」よりも個性などの「魅力」がより、女性アイドルに限らず男性アイドルにも求められるようになる。シブがき隊(1982年デビュー)は歌やダンスの技量不足をカバーするために、音楽の企画性を追求した。いわゆるノベルティソング(珍奇な(novelty)歌、いわゆる「ネタ」が先行した音楽)を積極的に練ったのである。その傾向としては、「スシ食いねェ!」に代表されるような、ジャポニスムが色濃く見られた[10]。続く忍者(1990年デビュー)は楽曲やパフォーマンスでジャポニズムを前面に押し出した[11]。
男性アイドルのマルチタレント化
1990年代に入るころには、男性アイドルの虚構性に対する需要がますます低下して、光GENJIの人気も下降した。1991年にデビューしたSMAPは、当初は光GENJIを模した華やかなコンセプトでスタートしたが、セールス面で事務所始まって以来の低迷を続ける。当時SMAPにバラエティ番組やテレビドラマに積極的に進出させる。お笑い方面への進出自体は過去のタレントも行っていたが、SMAPは手加減することなく、本職の芸人も顔負けの本気でコントに臨んだ。
この方針は創業者の喜多川が志向する劇場型のエンターテインメントからは逸脱していたが、この方針転換を自身が率先して行わせた。そのため、すべての芸能分野において一流のパフォーマンスを披露する技量を持たせようとすることは方針と合致し、また望ましいことであったのである[12]。
SMAPは、バラエティと音楽パフォーマンスを両方こなすことで、より身近な存在であるという存在位置を獲得することに成功した[13]。衣装についても身近な「リアル」を追求し、光GENJIのような気飾った衣装でもなく、近藤のような対抗文化の衣装でもなく、正真正銘の同時代の「リアル」な等身大の若者のヴィジュアルを保った。既に完成されたものではなくてそのメンバーの「物語」を見せ、ファンの共感を呼ぶという手法は、2000年代の男性アイドルの基本形となり、何よりジャニーズ事務所のほかの所属アイドルの模範ともなり、以降ジャニーズ事務所は男性アイドル界で圧倒的な勢力を築くに至った[14]。
特色
ジャニーズ事務所草創期の1960年代、日本の芸能界をリードしていたのは渡辺晋率いる渡辺プロダクション(ナベプロ)で、ジャズ奏者出身の渡辺の活動方針は、芸能人の生活基盤の安定のための市場整備にあり、タレントの権利擁護と市場提供を主目的とした。一方でジャニーズ事務所は、創業者ジャニー喜多川の舞台芸術に対する憧れが最初にあり、初代ジャニーズ以下、事務所に入所した青少年に対して、エンタテインメントについて手厚い教育を行った。ジャニーは事務所の経営は姉のメリー喜多川(現:代表取締役副社長)に任せ、自身は半世紀に渡り、タレントへの教育を自ら行った。
ジャニーズ事務所の特徴はこのタレントに対する教育制度にあり、デビュー前のタレントを総称してジャニーズJr.と呼ばれるようになる。郷ひろみがデビューした1970年代から、Jr.のタレントは顔見せを兼ねて先輩のコンサートのバックダンサーなどの下積みを積むようになる。この育成制度は、未婚女性のみで構成された宝塚歌劇団との類似性が指摘されており、喜多川も取材に対して「男版宝塚をやる」と宣言したことがある[15]。
CDデビューせず、俳優業を中心として活動する者もおり生田斗真、屋良朝幸、風間俊介、長谷川純、佐野瑞樹、ふぉ〜ゆ〜、浜中文一のように俳優業だけでジャニーズJr.を卒業した例もある[16]。
副業は、禁止されている事が所属タレントの口から語られている。ただし、事務所の許可を得てした例もある[17][18]。例として、元シブがき隊の布川敏和が事務所在籍時に、自主ファッションブランド「Jemmy's」を立ち上げたことがある[19]。
肖像権管理
2018年12月現在、所属タレントの肖像写真についてネット上での使用制限の緩和を進めている[20]。
かつては所属タレントの肖像権を守護し、複写等の悪用を防止するためその管理に厳格な事務所とされていた[21]。インターネットが普及した以降も、レコード会社・出演映画・テレビドラマ・CM・音楽番組の公式ウェブサイトや新聞のWeb、電子版上で、所属タレントの顔写真や動画を使用することが制限される[22]一方で例外もあり、TBSラジオで当時SMAPの香取が『スクランブルSMAP』のラジオパーソナリティを務めていた1997年ごろに同局ウェブサイト内で開設されたプロフィールでは、彼の顔写真を掲載していた[23]。2000年に所属タレントである近藤が経営するエムケイカンパニーが開設した「MK net Circuit 近藤真彦オフィシャルサイト」では、開設当時から顔写真を掲載している[24]。マネージャー等も同等とされていた。例えば出版社のサイトにて雑誌表紙のタレントが白抜きで表示される、CD等の通信販売サイトにてCDジャケットがシルエット表示される、など[25]長らく事務所および所属レコード会社の公式ウェブサイト以外のウェブサイトで所属タレントのCD・DVDのジャケット掲載を行っていなかったが2017年8月ごろから掲載が解禁された[26]。雑誌・書籍表紙についても2018年4月より掲載が認められるようになった[27]。
2017年から2018年にかけて、所属タレントが出演する CM、テレビドラマ[注 1]やバラエティの予告が公式チャンネルを通してYouTubeなどへアップロードされるようになり制限が緩和された[28]。2010年頃から、Adobe フラッシュプレイヤーの技術を利用し、閲覧ページを閲覧者が容易に画像などを保存できない設定になっているためかなり緩和されてきていた[29][信頼性要検証]。同時期からはテレビドラマ、バラエティ番組に関しても動画配信サービスの独占配信を中心に定額見放題配信が増加傾向にある[30]。
また2017年には、所属タレントの滝沢秀明が「日UAE親善大使」に委嘱された際、外務省のウェブページに滝沢が写った写真が公開されている[31]。
2017年9月にジャニーズ事務所を退社した香取慎吾については、退社後の写真をWeb媒体に掲載可能である旨が明示されている。これはジャニーズ所属時に存在した写真掲載規制が、退社にともなって解けたことを意味している[32]。同年11月10日、ジャニーズWESTの7人が出演するネットドラマ『炎の転校生 REBORN』がNetflixで世界配信[33]。
2018年1月1日より、所属芸能人の顔写真を公式サイト「Johnny’s net」に掲載開始した[34]。2018年1月31日、関ジャニ∞錦戸亮が外国特派員向けの会見を機に、所属タレントの会見出席時の写真がウェブ媒体における写真掲載が解禁、記者会見や舞台挨拶などでのジャニーズ事務所の所属タレント登壇時の写真がウェブサイトで使用可能[35][36]。使用可能な写真は、所属タレントに対する公開取材での写真で、使用する写真の枚数の制限や写真を二次利用する際の注意点などがあるものの(原則3カットまでなどの条件はあるものの)[37]、所属タレントのインターネット上での写真公開がほぼ例外なく容認される形となり[36]、同日のTwitter上でも、映画『羊の木』の公式アカウントで錦戸亮(関ジャニ∞)が写った写真がツイートされた[38]。
さらに、同年1月31日の時点では「記者会見、囲み取材、舞台あいさつなどタレント登壇時のものに限る」としていた使用許可範囲は、同年2月12日には事務所や製作者側から配信される写真に限りテレビドラマや映画出演発表の際にも使用可能と緩和され、当日は映画『来る』に主演する岡田准一の写真がインターネット上に掲載された[39]それ以降もスポーツ紙のWEB版で写真が使えない場合は、個人名・グループ名の名前だけを書いた画像で代用される場合がある[要検証 – ノート]。この場合、書体はスポーツ紙の見出しを模した文字が多い。[要検証 – ノート]。同年3月21日、ジャニーズJrの最新動画などを配信する公式Youtubeチャンネル「ジャニーズJr.チャンネル」を開設した[40]。事務所がインターネット上に無料配信される映像コンテンツを制作するのは今回が初である。
一方で、国際女性デー協賛の朝日新聞「Dear Girl」のインタビュー記事(井ノ原快彦の分)には、変わらず顔写真掲載を認めていな所属タレントの声の露出も制限される場合がある。
ラジオ番組のストリーミング配信においては、有料での配信となっているLISMO WAVEやドコデモFMでは番組が差し替えられている(大半はフィラー音楽となり、代替番組は放送しない)。radikoに関しては2018年3月までエリアフリーとタイムフリー(エリアフリーの非会員も含む)聴取が規制[42]されていたが、同年4月よりこの規制がなくなり、radikoプレミアムにおけるタイムフリー・エリアフリーいずれも聴取が可能となった[43]。 NHKネットラジオ「らじる★らじる」に関しては、NHKラジオの無料配信サービスであり、所属タレントが出演する放送番組は全て全国ネットであるため、開始当初からライブ配信が日本国内のみではあるが、そのまま配信される。地域選択も出来るが、設定している地域は関係ない。ただし、聞き逃し配信の対象外である[注 2]。
楽曲配信に関しては、個別の楽曲を月額定額制で聴取出来るドワンゴの楽曲配信サイト「dwango.jp(ドワンゴジェイピー)」が『ジャニーズスペシャル』と銘打ち、着うたを中心に配信を行っており、まだまだ数は少なく、アーティストも限られているが、楽曲によってはフルサイズの配信も行っている[44]。尚、iTunes Storeやmora等の楽曲の配信販売、またSpotifyのようなストリーミング事業には参加していない。
賞レースへの不参加方針
「所属タレントに優劣をつけさせない」との方針により、「候補者を何人か選び、その中から大賞やグランプリ獲得者を決める」という形式の賞レースへの参加は原則辞退している[45][46]。受け取るのはそのタレントに直接賞を贈呈するもの(例として「ベストジーニスト」)や日本国外での表彰のみとなっている。
日本レコード大賞
1987年に近藤真彦が『第29回日本レコード大賞』にノミネートされた際、死去した母親の骨つぼが盗難の被害に遭い「大賞を辞退しろ」と脅迫を受けた事件[注 3]や、1990年の『第32回日本レコード大賞』において、忍者が演歌・歌謡曲部門ではなくロック・ポップス部門にノミネートされたのを不服としたことが引き金とされている[45][46]。2003年にSMAPの「世界に一つだけの花」が『第45回日本レコード大賞』の候補に挙がったが「歌詞の中にあるように“ナンバー1”を目指すよりも“オンリーワン”を大切に歌ってきた。そのメッセージを貫きたい」という理由で辞退している[47]。
2010年の『第52回日本レコード大賞』には近藤真彦が「最優秀歌唱賞」(第50回以降、同賞はノミネート形式から選考形式に変更された)に選ばれた。この時は「近藤はレコード大賞に育てられた歌手」と受賞を受け入れている[48]。
日本アカデミー賞
2006年12月の『第30回日本アカデミー賞』発表の席上で、『武士の一分』に主演した木村拓哉が「事務所の方針で、最優秀賞をほかの人と競わせたくない」との理由で「主演男優賞」を辞退した事を発表している[45][47]。同年の『第49回ブルーリボン賞』において木村拓哉と岡田准一(『花よりもなほ』)が「主演男優賞」の選考に挙げられた際にも「お世話になっている俳優や所属タレント同士で賞を争うのは本意ではない」と辞退している[46]。
2015年1月、『第38回日本アカデミー賞』に岡田准一が「主演男優賞」(『永遠の0』)と「助演男優賞」(『蜩ノ記』)にノミネートされ、いずれも「最優秀賞」を受賞した。ジャニーズ事務所は「岡田はこれまで弊社最多の20本の映画に出させていただいており、映画に育てていただいた俳優といっても過言ではございません」というコメントを発表した[49]。
2016年3月、二宮和也が『母と暮せば』の演技で『第39回日本アカデミー賞』の「最優秀主演男優賞」を受賞してジャニーズ事務所としては2年連続の受賞となった。また山田涼介が「新人賞」を受賞し[50]、日本アカデミー賞にも参加するようになった。
アメリカ由来の芸能の伝道
創設者のジャニー喜多川は、その前半生を第二次世界大戦戦時中の一時期を除いてアメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルスで過ごし、その間アメリカ西海岸のエンターテインメントの世界に浴びるように触れる。また、両親の母国の敗戦により日本がまだ連合国軍の占領下にあった1950年頃から日本の芸能人が箔附けのために渡米するようになり、父の諦道が日本仏教の高野山真言宗米国別院の主監をつとめていた都合上、それらの寺院を公演場所として貸与しており、喜多川はここでもエンターテインメント業に触れる一方で、美空ひばりを筆頭に錚々たる芸能人と面識を持った[1]。
サンフランシスコ講和条約の発効で日本が主権回復した1952年、喜多川は来日してアメリカ大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎の近所の少年たちを結集させてチームを作り野球を教授していた。この野球少年たちの一人であったあおい輝彦(青井輝彦)が「ジャニーさんが監督なんだから、チームの名前もジャニーズでいいんじゃない?」と言ったことがきっかけでこの野球チームを『ジャニーズ』と命名したという[2]。
ある日、雨天により通常行う野球の練習を休み、映画館で『ウェストサイドストーリー』を鑑賞する。これに一同感動し、以降野球のトレーニングそっちのけでダンスのレッスンを始めた。この時の野球少年から選抜されたのが、事務所最初のタレントグループである(初代)ジャニーズであった。喜多川は単なるタレント育成ではなく、ミュージカル俳優のような歌唱してダンスもできるマルチタレントの育成を目指した。
1962年、渡辺プロダクションの系列会社としてジャニーズ事務所が創業される。初代ジャニーズは生放送の舞台ショーであった『夢であいましょう』や、『若さとリズム』(いずれもNHK総合テレビジョン)などに出演する[3]。
次いで、1968年にデビューしたフォーリーブスは当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り、「楽器を持たないGS」と通称される。1970年代に入りGSが下火に入ると、変わって台頭したソウルミュージックの路線に切り替える[4]。
アイドル的路線の確立
1970年代前半、GSのグループやメンバーはそれぞれアーティスト性を強めていた(ニュー・ロック)。また、アメリカの音楽文化の中では政治的な自我を前面に強調したフォークソングが新たに誕生し、日本においても吉田拓郎、井上陽水、中島みゆきらが人気を博していた。しかしジャニーズはあくまで非日常な舞台を演出する方針を堅持した。ジャクソン5を模した明るいソウルミュージックに転向し、軽快でポップな舞台を「演じる」路線をとったのである[5]。
1972年、郷ひろみのデビュー時にはその中性的なルックスを前面に押し出し、またGSで特にアイドル性が高かったオックスとタッグを組んでいた筒美京平をプロデューサーに迎えた。郷はその後、1970年代半ばから登場したディスコもいち早く受容したが、1975年に退所する。次いで1977年にデビューした川崎麻世、1980年にデビューした田原俊彦もこの流れを継いだ[6]。舞台演技として一番経験を積んだのは、少年隊である。少年隊はデビュー前からアメリカに進出するなどそのパフォーマンスを高く評価される。1985年にデビューすると、翌年から2008年まで舞台『PLAYZONE』で主役を張った[7]。1987年デビューの光GENJIもまたミュージカル志向であるが、トレードマークのローラースケートはイギリスのミュージカル『スターライトエクスプレス』に着想を得たものである[8]。
お茶の間のタレントの誕生
一方で、1970年代半ばからテレビが普及するにつれて、「日常で各家庭のお茶の間に居ながらにしてわずかな非日常的空間を楽しむ」、というスタイルが誕生する。この潮流の主軸をなしたのが、『スター誕生!』に関わった阿久悠であった。ジャニーズでこの新たな潮流に最初に合致したのが、近藤真彦(1980年デビュー)である。近藤のやんちゃなキャラクターが1950年代のオールディーズやストリートファッションなどの対抗文化の雰囲気を醸し出していると評され、ディスコ風の曲と並行してロック風の曲も発表された[9]。
1980年代に入ると男女両方のアイドルの大衆化はさらに進み、歌やダンスなどの「実力」よりも個性などの「魅力」がより、女性アイドルに限らず男性アイドルにも求められるようになる。シブがき隊(1982年デビュー)は歌やダンスの技量不足をカバーするために、音楽の企画性を追求した。いわゆるノベルティソング(珍奇な(novelty)歌、いわゆる「ネタ」が先行した音楽)を積極的に練ったのである。その傾向としては、「スシ食いねェ!」に代表されるような、ジャポニスムが色濃く見られた[10]。続く忍者(1990年デビュー)は楽曲やパフォーマンスでジャポニズムを前面に押し出した[11]。
男性アイドルのマルチタレント化
1990年代に入るころには、男性アイドルの虚構性に対する需要がますます低下して、光GENJIの人気も下降した。1991年にデビューしたSMAPは、当初は光GENJIを模した華やかなコンセプトでスタートしたが、セールス面で事務所始まって以来の低迷を続ける。当時SMAPにバラエティ番組やテレビドラマに積極的に進出させる。お笑い方面への進出自体は過去のタレントも行っていたが、SMAPは手加減することなく、本職の芸人も顔負けの本気でコントに臨んだ。
この方針は創業者の喜多川が志向する劇場型のエンターテインメントからは逸脱していたが、この方針転換を自身が率先して行わせた。そのため、すべての芸能分野において一流のパフォーマンスを披露する技量を持たせようとすることは方針と合致し、また望ましいことであったのである[12]。
SMAPは、バラエティと音楽パフォーマンスを両方こなすことで、より身近な存在であるという存在位置を獲得することに成功した[13]。衣装についても身近な「リアル」を追求し、光GENJIのような気飾った衣装でもなく、近藤のような対抗文化の衣装でもなく、正真正銘の同時代の「リアル」な等身大の若者のヴィジュアルを保った。既に完成されたものではなくてそのメンバーの「物語」を見せ、ファンの共感を呼ぶという手法は、2000年代の男性アイドルの基本形となり、何よりジャニーズ事務所のほかの所属アイドルの模範ともなり、以降ジャニーズ事務所は男性アイドル界で圧倒的な勢力を築くに至った[14]。
特色
ジャニーズ事務所草創期の1960年代、日本の芸能界をリードしていたのは渡辺晋率いる渡辺プロダクション(ナベプロ)で、ジャズ奏者出身の渡辺の活動方針は、芸能人の生活基盤の安定のための市場整備にあり、タレントの権利擁護と市場提供を主目的とした。一方でジャニーズ事務所は、創業者ジャニー喜多川の舞台芸術に対する憧れが最初にあり、初代ジャニーズ以下、事務所に入所した青少年に対して、エンタテインメントについて手厚い教育を行った。ジャニーは事務所の経営は姉のメリー喜多川(現:代表取締役副社長)に任せ、自身は半世紀に渡り、タレントへの教育を自ら行った。
ジャニーズ事務所の特徴はこのタレントに対する教育制度にあり、デビュー前のタレントを総称してジャニーズJr.と呼ばれるようになる。郷ひろみがデビューした1970年代から、Jr.のタレントは顔見せを兼ねて先輩のコンサートのバックダンサーなどの下積みを積むようになる。この育成制度は、未婚女性のみで構成された宝塚歌劇団との類似性が指摘されており、喜多川も取材に対して「男版宝塚をやる」と宣言したことがある[15]。
CDデビューせず、俳優業を中心として活動する者もおり生田斗真、屋良朝幸、風間俊介、長谷川純、佐野瑞樹、ふぉ〜ゆ〜、浜中文一のように俳優業だけでジャニーズJr.を卒業した例もある[16]。
副業は、禁止されている事が所属タレントの口から語られている。ただし、事務所の許可を得てした例もある[17][18]。例として、元シブがき隊の布川敏和が事務所在籍時に、自主ファッションブランド「Jemmy's」を立ち上げたことがある[19]。
肖像権管理
2018年12月現在、所属タレントの肖像写真についてネット上での使用制限の緩和を進めている[20]。
かつては所属タレントの肖像権を守護し、複写等の悪用を防止するためその管理に厳格な事務所とされていた[21]。インターネットが普及した以降も、レコード会社・出演映画・テレビドラマ・CM・音楽番組の公式ウェブサイトや新聞のWeb、電子版上で、所属タレントの顔写真や動画を使用することが制限される[22]一方で例外もあり、TBSラジオで当時SMAPの香取が『スクランブルSMAP』のラジオパーソナリティを務めていた1997年ごろに同局ウェブサイト内で開設されたプロフィールでは、彼の顔写真を掲載していた[23]。2000年に所属タレントである近藤が経営するエムケイカンパニーが開設した「MK net Circuit 近藤真彦オフィシャルサイト」では、開設当時から顔写真を掲載している[24]。マネージャー等も同等とされていた。例えば出版社のサイトにて雑誌表紙のタレントが白抜きで表示される、CD等の通信販売サイトにてCDジャケットがシルエット表示される、など[25]長らく事務所および所属レコード会社の公式ウェブサイト以外のウェブサイトで所属タレントのCD・DVDのジャケット掲載を行っていなかったが2017年8月ごろから掲載が解禁された[26]。雑誌・書籍表紙についても2018年4月より掲載が認められるようになった[27]。
2017年から2018年にかけて、所属タレントが出演する CM、テレビドラマ[注 1]やバラエティの予告が公式チャンネルを通してYouTubeなどへアップロードされるようになり制限が緩和された[28]。2010年頃から、Adobe フラッシュプレイヤーの技術を利用し、閲覧ページを閲覧者が容易に画像などを保存できない設定になっているためかなり緩和されてきていた[29][信頼性要検証]。同時期からはテレビドラマ、バラエティ番組に関しても動画配信サービスの独占配信を中心に定額見放題配信が増加傾向にある[30]。
また2017年には、所属タレントの滝沢秀明が「日UAE親善大使」に委嘱された際、外務省のウェブページに滝沢が写った写真が公開されている[31]。
2017年9月にジャニーズ事務所を退社した香取慎吾については、退社後の写真をWeb媒体に掲載可能である旨が明示されている。これはジャニーズ所属時に存在した写真掲載規制が、退社にともなって解けたことを意味している[32]。同年11月10日、ジャニーズWESTの7人が出演するネットドラマ『炎の転校生 REBORN』がNetflixで世界配信[33]。
2018年1月1日より、所属芸能人の顔写真を公式サイト「Johnny’s net」に掲載開始した[34]。2018年1月31日、関ジャニ∞錦戸亮が外国特派員向けの会見を機に、所属タレントの会見出席時の写真がウェブ媒体における写真掲載が解禁、記者会見や舞台挨拶などでのジャニーズ事務所の所属タレント登壇時の写真がウェブサイトで使用可能[35][36]。使用可能な写真は、所属タレントに対する公開取材での写真で、使用する写真の枚数の制限や写真を二次利用する際の注意点などがあるものの(原則3カットまでなどの条件はあるものの)[37]、所属タレントのインターネット上での写真公開がほぼ例外なく容認される形となり[36]、同日のTwitter上でも、映画『羊の木』の公式アカウントで錦戸亮(関ジャニ∞)が写った写真がツイートされた[38]。
さらに、同年1月31日の時点では「記者会見、囲み取材、舞台あいさつなどタレント登壇時のものに限る」としていた使用許可範囲は、同年2月12日には事務所や製作者側から配信される写真に限りテレビドラマや映画出演発表の際にも使用可能と緩和され、当日は映画『来る』に主演する岡田准一の写真がインターネット上に掲載された[39]それ以降もスポーツ紙のWEB版で写真が使えない場合は、個人名・グループ名の名前だけを書いた画像で代用される場合がある[要検証 – ノート]。この場合、書体はスポーツ紙の見出しを模した文字が多い。[要検証 – ノート]。同年3月21日、ジャニーズJrの最新動画などを配信する公式Youtubeチャンネル「ジャニーズJr.チャンネル」を開設した[40]。事務所がインターネット上に無料配信される映像コンテンツを制作するのは今回が初である。
一方で、国際女性デー協賛の朝日新聞「Dear Girl」のインタビュー記事(井ノ原快彦の分)には、変わらず顔写真掲載を認めていな所属タレントの声の露出も制限される場合がある。
ラジオ番組のストリーミング配信においては、有料での配信となっているLISMO WAVEやドコデモFMでは番組が差し替えられている(大半はフィラー音楽となり、代替番組は放送しない)。radikoに関しては2018年3月までエリアフリーとタイムフリー(エリアフリーの非会員も含む)聴取が規制[42]されていたが、同年4月よりこの規制がなくなり、radikoプレミアムにおけるタイムフリー・エリアフリーいずれも聴取が可能となった[43]。 NHKネットラジオ「らじる★らじる」に関しては、NHKラジオの無料配信サービスであり、所属タレントが出演する放送番組は全て全国ネットであるため、開始当初からライブ配信が日本国内のみではあるが、そのまま配信される。地域選択も出来るが、設定している地域は関係ない。ただし、聞き逃し配信の対象外である[注 2]。
楽曲配信に関しては、個別の楽曲を月額定額制で聴取出来るドワンゴの楽曲配信サイト「dwango.jp(ドワンゴジェイピー)」が『ジャニーズスペシャル』と銘打ち、着うたを中心に配信を行っており、まだまだ数は少なく、アーティストも限られているが、楽曲によってはフルサイズの配信も行っている[44]。尚、iTunes Storeやmora等の楽曲の配信販売、またSpotifyのようなストリーミング事業には参加していない。
賞レースへの不参加方針
「所属タレントに優劣をつけさせない」との方針により、「候補者を何人か選び、その中から大賞やグランプリ獲得者を決める」という形式の賞レースへの参加は原則辞退している[45][46]。受け取るのはそのタレントに直接賞を贈呈するもの(例として「ベストジーニスト」)や日本国外での表彰のみとなっている。
日本レコード大賞
1987年に近藤真彦が『第29回日本レコード大賞』にノミネートされた際、死去した母親の骨つぼが盗難の被害に遭い「大賞を辞退しろ」と脅迫を受けた事件[注 3]や、1990年の『第32回日本レコード大賞』において、忍者が演歌・歌謡曲部門ではなくロック・ポップス部門にノミネートされたのを不服としたことが引き金とされている[45][46]。2003年にSMAPの「世界に一つだけの花」が『第45回日本レコード大賞』の候補に挙がったが「歌詞の中にあるように“ナンバー1”を目指すよりも“オンリーワン”を大切に歌ってきた。そのメッセージを貫きたい」という理由で辞退している[47]。
2010年の『第52回日本レコード大賞』には近藤真彦が「最優秀歌唱賞」(第50回以降、同賞はノミネート形式から選考形式に変更された)に選ばれた。この時は「近藤はレコード大賞に育てられた歌手」と受賞を受け入れている[48]。
日本アカデミー賞
2006年12月の『第30回日本アカデミー賞』発表の席上で、『武士の一分』に主演した木村拓哉が「事務所の方針で、最優秀賞をほかの人と競わせたくない」との理由で「主演男優賞」を辞退した事を発表している[45][47]。同年の『第49回ブルーリボン賞』において木村拓哉と岡田准一(『花よりもなほ』)が「主演男優賞」の選考に挙げられた際にも「お世話になっている俳優や所属タレント同士で賞を争うのは本意ではない」と辞退している[46]。
2015年1月、『第38回日本アカデミー賞』に岡田准一が「主演男優賞」(『永遠の0』)と「助演男優賞」(『蜩ノ記』)にノミネートされ、いずれも「最優秀賞」を受賞した。ジャニーズ事務所は「岡田はこれまで弊社最多の20本の映画に出させていただいており、映画に育てていただいた俳優といっても過言ではございません」というコメントを発表した[49]。
2016年3月、二宮和也が『母と暮せば』の演技で『第39回日本アカデミー賞』の「最優秀主演男優賞」を受賞してジャニーズ事務所としては2年連続の受賞となった。また山田涼介が「新人賞」を受賞し[50]、日本アカデミー賞にも参加するようになった。
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