逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ、1961年6月18日 - 2019年9月16日[1])は鹿児島県姶良市(旧加治木町)出身で井筒部屋所属の元大相撲力士。なお、実際の出身地は東京都墨田区である。本名は、福薗 好昭(ふくぞの よしあき)[2]。
最高位は東関脇。得意技は左四つ、寄り、もろ差し、外掛け。現役時代の体格は182cm、130kg。引退後は年寄・井筒を襲名し、井筒部屋で後進の指導に当たっていた
来歴
目黒高校を中退して1978年1月場所に福薗の名で初土俵を踏む。1981年7月場所に、兄の鶴嶺山と同時に新十両となる。1981年11月場所は2勝13敗と大きく負け越し、幕下に陥落したが、1982年5月場所に再十両、このとき井筒部屋伝統の四股名・逆鉾に改名した。同年11月場所に入幕。現役時代は父(鶴ヶ嶺)譲りの「相撲巧者」と言われ、立合いから相手のもろ差しに潜り込むのが速く、そこからのがぶり寄りを得意とし、技能賞、三役の常連であった[2]。ちなみに本来は左四つだが、もろ差しに移行する際は右四つから巻き変えるのが特徴。このため、右四つが得意な力士とは相性がよかったが、左四つが得意な力士とは安易に左四つになり相手十分の相撲となってしまうことも多かった。
1984年7月場所に小結を飛び越して関脇昇進を果たし、次期の大関候補と呼ばれた事もあった。実際、関脇は9場所連続で務めていたが、出世欲が乏しく、また部屋頭だったことからか、立合いで胸を出し、顎を上げる悪癖が治らず、三役の地位では勝ち越しても8・9勝に終わり、2桁勝利(10勝以上)を挙げる事は一度も出来なかった。また、最終的に三賞を9度も獲得したが、全て9勝以下での受賞であった。その反面、話題には事欠かず隆の里に勝って土俵上でガッツポーズを取ったり、実弟の寺尾が取り組みに負けた際、思わず控えで立ち上がって手を貸そうとしたりする行為が、問題視されたこともあった。昭和60年代には寺尾と共に同時関脇、同時三賞受賞もしばしばあった。立合い正常化講習が行われた直後の場所である1984年9月場所では、その場所3日目の北天佑戦で勝った際の取組で一度目の際どい立合いを「手つき不十分」と指摘した九重を睨みつけたことやインタビュールームで憮然と 「アッタマにきたからね、もう」と口にするなどの態度を見せて物議を醸した[3]。千代の富士、双羽黒の2横綱を破った1987年9月場所から3場所連続で殊勲賞を獲得[2]。
若花田・貴花田が台頭してきた平成初期には力衰えて体も一回り小さくなっており、得意のもろ差しになってもそのまま後退して負けるといった取組が増え、低迷した。加えてマスコミでも散々に書き立てられ悪役の役回りを割り振られたがそれでも人気は高く、十両に陥落し1992年9月場所で引退するまで人気力士として活躍した。横綱千代の富士と屋台で遭遇してから、千代の富士に心酔し、以後両者はしばしば熱戦を展開した。現役時代は板井とも仲が良く、幕下に陥落してから再十両を果たすまでの間に師匠の大鳴戸と不仲に陥った板井は普段のちゃんこも井筒部屋で逆鉾と共に食べる間柄になったという[4]。
朝青龍(第68代横綱)が左手で手刀を切ることを、内館牧子横綱審議委員が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じく左利きでずっと左手で手刀を切っていた。だが当時はこれを問題視するものは誰もいなかった[5]。
現役引退後は年寄・14代春日山を襲名して井筒部屋付きとなり、師匠の停年(定年)退職後は井筒に名跡変更して部屋を継承した。継承直後の1994年5月には、既に結婚していたことと当時7歳だった長女・清香(後の天咲千華)の存在を明らかにして周囲を驚かせた。[6]部屋の師匠としては、直弟子である鶴竜を横綱まで育て上げるなど手腕を発揮した[2][7]。また、相撲協会では、役員就任前は、役員でない親方衆で構成される年寄会の会長を務め、2014年には役員選挙に立候補して副理事に就任した。2002年に勝負審判に就任して以降は12年間の長きに亘ってその任務を果たし、2014年の副理事就任後も審判部に残留して副部長へと昇進した。2016年の役員候補選挙に立候補するも、落選する[8]。その後行われた新たな職務分掌では、監察委員となった。
2014年末には鶴竜がモンゴル人女性との婚約を発表したことを受けて会見を行ったが、この会見などの準備に追われた影響で体調を崩し、直後の2015年1月場所は目の不調によって全休[9]。同月29日の理事会より職務に復帰し、2月8日の大相撲トーナメントから審判長として土俵下に座る意向を示した[10]。
2016年3月場所では、8日目に結びの一番で審判長の職務をしていたところ白鵬に寄り切られて(だめ押しとの見方もある[11])土俵から転落した嘉風の下敷きとなり、左足を骨折して入院する災難に遭った[12]。
土俵下の勝負審判を務める親方はNHKの大相撲中継では原則として解説を務めないが、審判部所属になる前に解説を務めた際には、自分より年上の力士を語る際は「○○関」と呼称していた[13]。
2018年2月2日の副理事選挙では4人で副理事の3枠を争う中、実弟の20代錣山と異例の兄弟対決となった。前回の選挙では14代玉ノ井との決選投票の末に落選した井筒は31票でトップ当選。弟との争いに「複雑な気持ち。同じ会社にいるもんじゃないなとつくづく思います」と喜びの表情は見せなかった[14][15]。
2019年9月場所前に膵臓の疾患で体調を崩し、本場所を休場して都内の病院に入院していたが、同月16日夜に容態が急変し死去した[1]。58歳没。井筒部屋は死去に伴って本場所中に師匠不在となったため、転籍先が決まるまで時津風一門の8代鏡山が鶴竜を含む部屋所属力士・床山の身分を一時的に預かる形となった[16]。
家系図
西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下)の孫、鶴ヶ嶺(元関脇)の次男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。井筒3兄弟と言われ、長兄が鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾、三男が寺尾(元関脇)。また、鶴ノ富士智万(元十両)は従弟に当たり、元中日ドラゴンズ選手の井上一樹は親戚に当たる。長女は元宝塚歌劇団花組娘役(92期生)の天咲千華(あまさき・ちはな)。
改名歴
福薗 好政(ふくぞの よしまさ)1978年1月場所-1982年3月場所
逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ)1982年5月場所-1989年7月場所
逆鉾 信繁(- のぶしげ)1989年9月場所
逆鉾 伸重(- のぶしげ)1989年11月場所-1992年9月場所
年寄変遷
春日山 好昭(かすがやま よしあき)1992年9月-1994年4月
井筒 好昭(いづつ -)1994年4月-2019年9月
最高位は東関脇。得意技は左四つ、寄り、もろ差し、外掛け。現役時代の体格は182cm、130kg。引退後は年寄・井筒を襲名し、井筒部屋で後進の指導に当たっていた
来歴
目黒高校を中退して1978年1月場所に福薗の名で初土俵を踏む。1981年7月場所に、兄の鶴嶺山と同時に新十両となる。1981年11月場所は2勝13敗と大きく負け越し、幕下に陥落したが、1982年5月場所に再十両、このとき井筒部屋伝統の四股名・逆鉾に改名した。同年11月場所に入幕。現役時代は父(鶴ヶ嶺)譲りの「相撲巧者」と言われ、立合いから相手のもろ差しに潜り込むのが速く、そこからのがぶり寄りを得意とし、技能賞、三役の常連であった[2]。ちなみに本来は左四つだが、もろ差しに移行する際は右四つから巻き変えるのが特徴。このため、右四つが得意な力士とは相性がよかったが、左四つが得意な力士とは安易に左四つになり相手十分の相撲となってしまうことも多かった。
1984年7月場所に小結を飛び越して関脇昇進を果たし、次期の大関候補と呼ばれた事もあった。実際、関脇は9場所連続で務めていたが、出世欲が乏しく、また部屋頭だったことからか、立合いで胸を出し、顎を上げる悪癖が治らず、三役の地位では勝ち越しても8・9勝に終わり、2桁勝利(10勝以上)を挙げる事は一度も出来なかった。また、最終的に三賞を9度も獲得したが、全て9勝以下での受賞であった。その反面、話題には事欠かず隆の里に勝って土俵上でガッツポーズを取ったり、実弟の寺尾が取り組みに負けた際、思わず控えで立ち上がって手を貸そうとしたりする行為が、問題視されたこともあった。昭和60年代には寺尾と共に同時関脇、同時三賞受賞もしばしばあった。立合い正常化講習が行われた直後の場所である1984年9月場所では、その場所3日目の北天佑戦で勝った際の取組で一度目の際どい立合いを「手つき不十分」と指摘した九重を睨みつけたことやインタビュールームで憮然と 「アッタマにきたからね、もう」と口にするなどの態度を見せて物議を醸した[3]。千代の富士、双羽黒の2横綱を破った1987年9月場所から3場所連続で殊勲賞を獲得[2]。
若花田・貴花田が台頭してきた平成初期には力衰えて体も一回り小さくなっており、得意のもろ差しになってもそのまま後退して負けるといった取組が増え、低迷した。加えてマスコミでも散々に書き立てられ悪役の役回りを割り振られたがそれでも人気は高く、十両に陥落し1992年9月場所で引退するまで人気力士として活躍した。横綱千代の富士と屋台で遭遇してから、千代の富士に心酔し、以後両者はしばしば熱戦を展開した。現役時代は板井とも仲が良く、幕下に陥落してから再十両を果たすまでの間に師匠の大鳴戸と不仲に陥った板井は普段のちゃんこも井筒部屋で逆鉾と共に食べる間柄になったという[4]。
朝青龍(第68代横綱)が左手で手刀を切ることを、内館牧子横綱審議委員が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じく左利きでずっと左手で手刀を切っていた。だが当時はこれを問題視するものは誰もいなかった[5]。
現役引退後は年寄・14代春日山を襲名して井筒部屋付きとなり、師匠の停年(定年)退職後は井筒に名跡変更して部屋を継承した。継承直後の1994年5月には、既に結婚していたことと当時7歳だった長女・清香(後の天咲千華)の存在を明らかにして周囲を驚かせた。[6]部屋の師匠としては、直弟子である鶴竜を横綱まで育て上げるなど手腕を発揮した[2][7]。また、相撲協会では、役員就任前は、役員でない親方衆で構成される年寄会の会長を務め、2014年には役員選挙に立候補して副理事に就任した。2002年に勝負審判に就任して以降は12年間の長きに亘ってその任務を果たし、2014年の副理事就任後も審判部に残留して副部長へと昇進した。2016年の役員候補選挙に立候補するも、落選する[8]。その後行われた新たな職務分掌では、監察委員となった。
2014年末には鶴竜がモンゴル人女性との婚約を発表したことを受けて会見を行ったが、この会見などの準備に追われた影響で体調を崩し、直後の2015年1月場所は目の不調によって全休[9]。同月29日の理事会より職務に復帰し、2月8日の大相撲トーナメントから審判長として土俵下に座る意向を示した[10]。
2016年3月場所では、8日目に結びの一番で審判長の職務をしていたところ白鵬に寄り切られて(だめ押しとの見方もある[11])土俵から転落した嘉風の下敷きとなり、左足を骨折して入院する災難に遭った[12]。
土俵下の勝負審判を務める親方はNHKの大相撲中継では原則として解説を務めないが、審判部所属になる前に解説を務めた際には、自分より年上の力士を語る際は「○○関」と呼称していた[13]。
2018年2月2日の副理事選挙では4人で副理事の3枠を争う中、実弟の20代錣山と異例の兄弟対決となった。前回の選挙では14代玉ノ井との決選投票の末に落選した井筒は31票でトップ当選。弟との争いに「複雑な気持ち。同じ会社にいるもんじゃないなとつくづく思います」と喜びの表情は見せなかった[14][15]。
2019年9月場所前に膵臓の疾患で体調を崩し、本場所を休場して都内の病院に入院していたが、同月16日夜に容態が急変し死去した[1]。58歳没。井筒部屋は死去に伴って本場所中に師匠不在となったため、転籍先が決まるまで時津風一門の8代鏡山が鶴竜を含む部屋所属力士・床山の身分を一時的に預かる形となった[16]。
家系図
西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下)の孫、鶴ヶ嶺(元関脇)の次男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。井筒3兄弟と言われ、長兄が鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾、三男が寺尾(元関脇)。また、鶴ノ富士智万(元十両)は従弟に当たり、元中日ドラゴンズ選手の井上一樹は親戚に当たる。長女は元宝塚歌劇団花組娘役(92期生)の天咲千華(あまさき・ちはな)。
改名歴
福薗 好政(ふくぞの よしまさ)1978年1月場所-1982年3月場所
逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ)1982年5月場所-1989年7月場所
逆鉾 信繁(- のぶしげ)1989年9月場所
逆鉾 伸重(- のぶしげ)1989年11月場所-1992年9月場所
年寄変遷
春日山 好昭(かすがやま よしあき)1992年9月-1994年4月
井筒 好昭(いづつ -)1994年4月-2019年9月
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