ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်[2]、英語: Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)[3]、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。
南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾を挟んで相対している[4]。
多民族国家で[5]、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族[6]などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い[7](言語参照)。
国名
「ミャンマーの国名」も参照
正式名称のビルマ語表記は、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်。国際音声記号では、[pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀](ピダウンズ・タンマダ・ミャンマー・ナインガンドー、Pyidaungzu Thanmada Myanma Naingngandaw)。通称は、Myanmar Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(ဗမာ、バマー)、文語的な呼称としてMyanmar(ျမန္မာ、ミャンマー)があり、ミャンマーでは古くからこの2つの呼称を使い分けている。
2010年以降の公式の英語表記はRepublic of the Union of Myanmar[8]。通称は Myanmar。
2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦
1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )
1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦(公式の英語表記はUnion of Myanmar )
通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫して、ビルマ。漢語(北京官話)で緬甸(Miǎn diàn)と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語の緬も用いられた(泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称(ビルマ国)にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989年6月18日に軍事政権「国家法秩序回復評議会」 (SLORC) は、国名の英語表記をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。『朝日新聞』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の春頃「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。
軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし、「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。
名称変更を認めていない立場から、アウンサンスーチーやビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) のほか、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「ビルマ」とし、EUが両表記を併記する例もあった。ASEAN諸国、日本、インド、中国、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、BBC、『ワシントン・ポスト』、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、『タイム』、主要な人権団体は「ビルマ」を用い、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』、CNN、AP通信、ロイターは「ミャンマー」を採用している。
歴史
詳細は「ミャンマーの歴史(英語版)」を参照
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃(中国語版)氏の六詔(中国語版)の傘下に入ったと考えられている。後に六詔が統一されて南詔となった。
驃国・タトゥン王国
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。 832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(英語版)(9世紀 - 1057年)が建国された。
ビルマ族の南下
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史の言う「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。1385年から40年戦争(英語版)が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年、タウングー(英語版)に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝やラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族(英語版)が住む雲南のシップソーンパーンナーを支配した。しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールの下で、プラターパーディティヤ(英語版)が支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝(英語版)を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。清に助けを求めたシャン族が乾隆帝と共に興した国土回復戦争が清緬戦争[9](1765年 – 1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年にタークシン率いるトンブリー王朝(1768年-1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝(1782年-1932年)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。
イギリス統治時代
一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(英語版)(在位:1819年–1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年–1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(英語版)(1817年–1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[10]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(英語版)(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約(英語版)が締結され、アッサム[11]、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲した。
イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争(英語版)で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(英語版)(在位:1846年–1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(英語版)(在位:1853年–1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出すること
独立
1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。
1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊(英語版)(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合で中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯の麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(英語版)(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[13]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[14]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍(英語版)も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。
ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣(英語版)(1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日に連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争(1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデター(英語版)を起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領(1962年3月2日–1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。
1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(英語版)(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[14]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦で釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍(英語版)が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。
1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談。1990年5月27日に実施された総選挙(英語版)ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日、ソ連崩壊。
1992年4月23日にタン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島(英語版)を賃借し、中国はレーダー基地と軍港を建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュやスリランカ、モルディブ、パキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(英: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会(英: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。
2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。
南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾を挟んで相対している[4]。
多民族国家で[5]、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族[6]などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い[7](言語参照)。
国名
「ミャンマーの国名」も参照
正式名称のビルマ語表記は、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်。国際音声記号では、[pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀](ピダウンズ・タンマダ・ミャンマー・ナインガンドー、Pyidaungzu Thanmada Myanma Naingngandaw)。通称は、Myanmar Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(ဗမာ、バマー)、文語的な呼称としてMyanmar(ျမန္မာ、ミャンマー)があり、ミャンマーでは古くからこの2つの呼称を使い分けている。
2010年以降の公式の英語表記はRepublic of the Union of Myanmar[8]。通称は Myanmar。
2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦
1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )
1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦(公式の英語表記はUnion of Myanmar )
通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫して、ビルマ。漢語(北京官話)で緬甸(Miǎn diàn)と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語の緬も用いられた(泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称(ビルマ国)にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989年6月18日に軍事政権「国家法秩序回復評議会」 (SLORC) は、国名の英語表記をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。『朝日新聞』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の春頃「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。
軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし、「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。
名称変更を認めていない立場から、アウンサンスーチーやビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) のほか、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「ビルマ」とし、EUが両表記を併記する例もあった。ASEAN諸国、日本、インド、中国、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、BBC、『ワシントン・ポスト』、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、『タイム』、主要な人権団体は「ビルマ」を用い、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』、CNN、AP通信、ロイターは「ミャンマー」を採用している。
歴史
詳細は「ミャンマーの歴史(英語版)」を参照
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池が隋の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃(中国語版)氏の六詔(中国語版)の傘下に入ったと考えられている。後に六詔が統一されて南詔となった。
驃国・タトゥン王国
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。 832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(英語版)(9世紀 - 1057年)が建国された。
ビルマ族の南下
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史の言う「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受け、1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝 (1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。1385年から40年戦争(英語版)が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年、タウングー(英語版)に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝やラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族(英語版)が住む雲南のシップソーンパーンナーを支配した。しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールの下で、プラターパーディティヤ(英語版)が支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝(英語版)を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。清に助けを求めたシャン族が乾隆帝と共に興した国土回復戦争が清緬戦争[9](1765年 – 1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年にタークシン率いるトンブリー王朝(1768年-1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝(1782年-1932年)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。
イギリス統治時代
一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(英語版)(在位:1819年–1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年–1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻(英語版)(1817年–1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[10]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(英語版)(1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約(英語版)が締結され、アッサム[11]、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲した。
イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争(英語版)で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(英語版)(在位:1846年–1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(英語版)(在位:1853年–1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入し、ビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出すること
独立
1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。
1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊(英語版)(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合で中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯の麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(英語版)(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[13]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[14]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍(英語版)も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。
ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣(英語版)(1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日に連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争(1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデター(英語版)を起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領(1962年3月2日–1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。
1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(英語版)(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[14]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦で釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍(英語版)が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。
1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談。1990年5月27日に実施された総選挙(英語版)ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日、ソ連崩壊。
1992年4月23日にタン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島(英語版)を賃借し、中国はレーダー基地と軍港を建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュやスリランカ、モルディブ、パキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(英: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会(英: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。
2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。
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